「観念的生活」を過ごしてみた

中島義道の「観念的生活」を読んでいる。タイトル通り観念的生活を綴ったものであるが、生活らしい生活はそこにはなく、真摯に生きる社会不適合性格破綻者の観想が描かれている。オススメだ。この本の形式を気に入った。

なので、この本の抜き出しと、パロディを生産する。

七月☓日

昔、「哲学はいつか、自然科学の圧倒的発展により、不要なものになるんじゃないか?」と夢見た(?)ことがあったが、そもそも哲学は自然科学の再現性や反証可能性…近代的な「科学の定義」からは外れたところに成立している。

「検証も実験もできない哲学の議論が、議論といえるか。価値があるのか。哲学は絵空事ではないか?」その疑問は狂的ではないが、「科学の定義」は科学実験からは出てこない。可謬主義も、自然科学の実験結果から導けるものではない。

(「哲学科に国家予算など割かなくて良い」なら、まだ分かる)

パートのおばちゃんから「ビスコ」のいちご味をもらった。パソコンのキーボードに粉がまみれてはいけないので、ここでは食えない。

「観念的生活」は、全編をワクワクしながら読んだ本だ。時間にまつわる話(=観想)は、著作権など無視して前編載せてやりたいくらいである。

かいつまんで言うと、中島義道は「時間は存在しない」と言っている。

  • そんなものは、人間の妄想に過ぎない。なぜ人間が「時間」という概念に出くわしてしまうのか。それは、刻々と変化する世界に、変化するものと、変化しない(ように見える)ものがあるからだ。
  • 過去は存在せず、未来も当然存在しない
  • 「時間が過ぎ去る」感覚は、時間を物体的に捉えてしまうことによる錯覚である

うんぬん。私は中島の言っていること全てを理解できるわけでもないし、ほとんどチンプンカンプンだが、「時間は物質ではない」ことは、皆さん納得していただけると思う。

時間を見た人も、触った人も、食べた人もいない。

七月☓日

明日、有給休暇を始めてとる。正確に言えば、本日人生で始めて有給休暇を申請し、明日に有給休暇(日/デイ)が招来する……(正確に言えているのか?)

上司が原則会社におらず、パートの方がほぼ毎日出勤なので、パートの方が働く日は休めない。もちろん、「俺が休みたいから、あなたも休みね」と言うことはできる。社員の特権である。

ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」をさっき読み終えた。作者の人となりで作品の”価値”の判断はしてはならないと思っているが、ジジェクの他の本を読んだり、著者が実際に話している場面をYouTubeなどで見ると、理解がしやすくなるのは間違いない。

これは

ジジェクの「ラカン(の用語)によってカントを読む ヘーゲル(の用語)によってマルクスを読む」

などの高尚な概念操作を言いたいのではなく、

内田樹の”意味がわからなくとも、テキストの意味を宙吊りにして読み進め、身体化させる

などのカッコいいことではなく、もっと素朴な「条件が増えれば増えるほど、範囲は狭まる」でしょうという話だ。

端的に言えば、Akinatorである。

  • 「あなたがイメージしているのは、男ですか?女ですか?」
  • 「実在の人物ですか?フィクションのキャラクターですか?」
  • 「YouTuberですか?」

これらの質問を重ねていくと、条件が当てはまる”対象”がどんどん狭まり、最終的に一人が炙り出される。中島の「観念的生活」に

「何かが見えるためには、見えないものが必要なのだ」

「観念的生活」43ページ

とあるが、ここからノヴァーリスの有名な詩の断片

おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているのだろう。

光についての論文 2120 新断片集

を、少なからぬ人が連想したに違いない。

中島は哲学的な”言葉遣い=思考形式”は、自然言語や文学・芸術の言葉によって汚染されていると主張している。私も賛同はするのだが、自然言語のハチャメチャさ・無内容さ・混濁具合を、正直なところ私は楽しんでいる。

(詩の言語が好きだ。谷川俊太郎がどこかで、「詩人は頭が悪いほうが向いてる」と書いていたような気がする。ここらへんは、中島がドストエフスキーとカミュを「哲学者ではない/哲学的センスがない」と切り捨てた態度と相似が見られる。

おそらく、私は中島のいう「哲学的センス」が欠けているのだろう。しかし、私に才能があろうが無かろうが、気になることは考え抜くつもりだ。

七月☓日

スコーンを何年かぶりに食べた。あさましい食い物であった。

「観念的生活」の75ページにおいて、中島は「美学的快・不快」「倫理的快・不快」という枠組みを提案している。

例として挙げられるのは、「毛むくじゃらのスネを露出させ、スカートをはいている男」である。この男は、現代の日本の大半の人からは「不快」だろうが、古代ローマなどでは男がスカートを履くのは普通だったし、スコットランドのキルト衣装もそうだろう。

(そういや、なんで女性は化粧をしても良いのに、男性だと奇人になってしまうんだろう?)

ここで思ったのが、覇権を握っている「美的快・不快」Aのなかで、保守的に「よい作品」を作ろうという試みと、そのAを転倒させる・ズラす・ルールを書き換える試みがあるのではないかということだ。


※このお笑い芸人「くじら」は、カジサックことキングコング梶原と、評論家の宇野常寛の騒動について述べられたもの。

そして同時に、現代アートのマーケットがもはや「美的快・不快」が価格に与える影響は微小なのではないかという懸念も浮かぶ。

「観念的生活」の、72ページから73ページにかけて、「美しい」という言葉は、対象の性質に対して述べられた言葉ではなく、態度に向けられたものであると書かれているが、それは納得できる。続けて、「倫理的快・不快」は、「美学的快・不快」と、かなり重なるとも。

(美学に関しては、生涯をかけて勉強したいと思っている。「美しい」とは何か。人は何を美しいと思うのか)

「美しい」と思うことそれ自体に、「共同体の倫理」が働いているというのは、有色人種が「白人らしい」相貌を尊ぶことからなどから察せる(うまく納得できる原理を私自身把持していないのが申し訳ない)。

ただし、「共同体の美学」は絶対ではない。黒い肌を美しいと思う人も、一重まぶたを美しいと思うこともできる。…「共同体の美学」に反するものは、美学上の犯罪者なのだろうか?

これは複雑で、「白人らしさ」とは何か他の「人種」を措定しないと現れず、日本人からすればヨーロッパ人の鼻は「大きい」「高い」だが、中東人からすれば「小さい」「低い」である。正確には、鼻が高いことが日本人(及び東アジア人)からすれば「ヨーロッパ人」らしさ、より「ヨーロッパ人らしい」ことに繋がるが、中東人からすればその逆になる。

ヨーロッパ人の特徴として、「目元の彫りが深い」ことを日本人は挙げるが、オーストラリアのアボリジニからすれば、「彫りがより浅い」のが「ヨーロッパ人らしさ」になる。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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