新しい風景を見れたらそれで良い

「やるべきことが多すぎて、何から始めていいか分からないときは、仕事を細かに区切ってからすると、仕事が捗る」

スケープゴートの創出は、人生をシンプルにする。「成功者は生活をシンプルにする」らしいが、あれは複雑なことを考えるために、他のことに気をとられないようにしているためだ。

(この部分で、私は“スケープゴート”を非常に奇異な用法で用いている。後から見返して気付いたが、あえてそのままにしておこう)

曖昧さへの耐性・複雑なものを複雑なまま理解する能力は、尊ばれるべきものである。曖昧さ耐性は、心理学の研究などで度々スポットライトを当てられる指標である。そして心理学における曖昧さとは、「解釈多様性」「可能性の多さ」「両義性」などである。

また、統合失調症とは曖昧さの拒絶傾向であるとする研究結果もある。「頭のいい人は、難しい言葉を使わない」というのは、バカの願望なのかそれとも統合失調症患者の妄想なのだろうか?

曖昧さの排除は、原則として無意識下に行われる。我々は、それに抗い続けなければならない。「我々」が複雑さに耐えきることが難しくとも、少なくとも統治者は善悪二元論の世界で生きてはならない。

良心の呵責

あらゆる国家、あらゆる人種、あらゆるジェンダー。人生を楽しんでいるもの、人生を恨んでいるもの、苦しんでいるもの、被害者意識に囚われているもの、加害者意識に苛まれているものがいる。

ツイッター上で、女性を憎悪しているピックアップ・アーティストと軽くコメントのやり取りをした。彼はコンスタントに、「俺はいままで女にゴミのような扱いを受けてきた。仕返しをして何が悪いんだ」と繰り返し述べている。そこで私は「かわいそうな女の人に会ったことはありますか?」と聞いた。

「そういった人は、ラインでやり取りしてるときなんかで排除するので、会ったことないですね」との返答があった。

彼は、「かわいそうな女の人」の存在はいると認識できていたのだろうか?それとも「そんな奴はいない」と否認するのだろうか。

陰謀論には、世界を単純化してくれる魅力がある。これは、陰謀論が実際に正しいかどうかは関係がない(いくつかの「陰謀論」は、後に正式な歴史になっている。少しズレるが、ガリレオの地動説だって、最初は非難されたのだ)。

また、陰謀論の多くは「悪の主体」を作り出す。スケープゴートである。繰り返しになるが、”スケープゴート”が実際に”悪”かどうかは相関性がない。

「罪を憎んで人を憎まず」…この態度をキープし続けることは、非常に難しい。ニュージーランド/クライストチャーチのモスクを対象に、反イスラムテロを起こしたブレントン・タラントは、対象の殺害という短絡的な手段をとった。

宗教が「迫害」によって根絶しないことは、リアリストなら皆わかることなのに。

複雑さとは、理解困難性と同義

新聞の紙面には、限りがある。報道番組も、短い時間の中で情報を伝えなければならない。

「誰が敵だか分からない」という状態よりは「こいつは敵だ」と認識できる方が良い。

また、「私は何をすればいいのですか?」という問いに対して、「曖昧さを耐えろ」「羊を生贄に捧げるな」「認知的不協和のメカニズム」などの文言は、そのものに対して救いにならない。救いになるのは「神に祈りなさい」あるいは「ヨガをしなさい」だ。メッセージは単純であればあるほど、相手に届きやすくなる。

では、複雑なメッセージはどのように届けるべきか?イエロージャーナリズムと愚民とポピュリストと民主主義のヘルコンボを回避するには?

もちろん答えは一つだけではない。

「単純さ」vs「独自性」

詩を読む楽しさとは、言葉に出会う楽しさである。「新しいボキャブラリーに出会える」ことではなく(そういったこともある。三島由紀夫よありがとう)、語と語の組み合わせにより、見慣れない風景を見せてくれる。

人間は、飽きる生き物である。どんな素晴らしい音楽でも、10回も聞けば嫌になる。見城徹は、「誰も見たことがない色があると言われたら、それを見たくなるでしょう」と、作家のオリジナリティの大切さを説く際に例として提示した。「誰も見たことがない色」はおそらくないだろうが、人の好奇心を表現する訓話として優秀だろう。

「単純さ」と「オリジナリティ」

ここで、2つの相反するかのような規範を提示する。

「メッセージを他者に届けるために大切なのは、独自性・オリジナリティである」

あるいは

「メッセージを他者に届けるために大切なのは、単純さである」

単純で、なおかつ独自性のあるメッセージは、より多くの人を動かすのだろうか?

逆に考えて

多くの人を駆り立てる・駆り立てたメッセージは、単純で独自性があった。

自身の確証バイアスに気をつけなければいけないが、この説は検証の価値があるだろう。

受取人の選別について

スピヴァクというインド出身の文芸評論家の本を、私は一冊も呼んだことがないが、このPDFでは、「彼女がどれほど自覚的だったのかは不明だが、彼女は『わかりやすい文章』を、意図的に拒否していた」とあった。

(スピヴァクの『サバルタン…』邦訳はまあまあヒドいらしい)

難しいものを表現するには、難しい文体が必要なのだろうか?あえて、大切なことを書かないだとか、文章のどこかに隠すだとか、そういった意図的に晦渋にする狙いはなんなのだろう。

一つ考えられるのは、引用への反抗である。もう一つは、受取人の選別。また、「難しいものは価値のあるものだ」という、神秘主義的な心理傾向の利用。

あるいは、ただ単に書いている人が何を書いているのか分かっていない。

わけのわからない文章に対して、私は寛容である。耐性がある。理解不明な文章に出会ったところで、今更わたしの自尊心が傷ついたりしない。また、「こいつは無理やり簡単な話を難しく話そうとしている」と思ったりもしない。

私は、作者の内面や意図に重きを置いていない。新しい風景が見れたらそれでいいと思っている。

参考:Tolerance for Ambiguity

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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