「読書をしなかった自分」を想像してみる

読書家の99%以上は、読書が好きだ。義務感だとか、必要のために本を大量に読んでいる人には、今まで出会ったことがない。

昔は、ほんとうに読書が好きだった。ジャンルを問わずに乱読していた。一時期、心身の調子を落として全く本を読まない時期があったが、今では読書欲・知識欲も復活している。

読書家が皆頭がいいとは思わないが、物凄い読書家の男の話がつまらなかったことはない。

(あくまでも、”物凄い”読書家)

読書をもししていなかったら

読書にのめり込まなかった自分を想像することは難しい。すでに大量の本を自分は読んでしまっている。

ただ、本をほとんど読まない人生を送ってきた人は多い。彼らを考えることが、「本を読んでこなかった自分」の想像を助けるだろう。

自己肯定感はおそらく今の1.8倍

本を読んでこなければ、多分、今の自分よりもっと自信満々に物事を語れているような気がする。

本を書く人というのは、基本的に頭のいい人達だ。本を読んでいると自分の思考の枠組みが拡大していく気がする。語彙が増えて、シンプルな世界観がより関節を増やして広くなっていく気がする。

私は中島らもから、『どんなコトでも楽しむ』ことを学んだ。しかし、それにより悪影響はあったと思う。変にニヒリスティックになって、どんな過酷な場所だろうが、その環境に適応できると考えてしまった。それは間違いだった。

本を読まなければ、もっと勉強していた気がする。勉強して、「キャリアを積む」ことにフォーカスしていただろう。そして、「人に迷惑をかけなければいい」とのシンプルな倫理ルールで、人生を生きていたことだろう。今の自分は、「人に迷惑をかけなければ何をしても良い」の態度からは少し身をおいている。

本を読んでいなくても、今のロジカル度の75%程度はロジカルに物事を考えている状況が想像できる。思考に使う単語は曖昧模糊としていて、矛盾は多いかもしれないが、今の不安定な状況よりはずっと精神状態が安定していて、「頭の悪いホリエモン」みたいな人間になっていることが想像できる。

新聞の記事・コラムをよく読むのだが、それすらも読んでいない自分を想像するのは難しい。しかし、「ロジカル」という言葉は使っていないことは分かる。

謝るのが嫌いな子どもだった

小学校では、おそらく教師の世界に代々受け継がれている方法だが、形式上であっても必ず喧嘩のあとは子どもたちをお互い謝らせる。

あれが大嫌いだった。内面を支配されているようで、心の底から反発心を感じた。「今から謝るけど、ほんとうには謝っていません」と宣言してから「ごめんなさい」と言ったこともある。

そのまま大人になったとしたら、「かわいい後輩」ではないだろう。典型的な、理屈っぽい生意気な新入社員になる。

友達に「本を読むよりも、実際に人と会って話を聞いて知識を得たい」タイプの人がいるが、別に彼は頭が悪いわけではない。傲慢に聞こえるかもしれないが、知的な男である。

本も読まないし、ネットや紙媒体で文章を読まない友人がたくさんいる。彼らは別に、愚かなわけではない。彼らに共通点があるとすれば、主観的な経験論で”セオリー”が構成されていることだろうか。

たとえば、「子どもを叱るとき、その子の目をしっかり見て話したら、ちゃんと言うことを聞いた。この方法は有効的だ」といったような、過去の自分の経験によって、人生の進路を定めるのが「本を読まない人」の大いなる傾向かも知れない。

そして、この方法論は有効的だ。有効的だし、人間には現状維持バイアスという心理作用もある。彼らはその方法を「正しい」と思う。

もちろん直感でしかないが、私が読書をせずに成長した場合、今よりも孤独を恐れ、外交的で、人を信用せず、もっと生意気で、自信たっぷりの人間になっている。そして、今よりも見栄っ張りで、攻撃的で、いわゆる「アイデンティティ・ポリティクス」にはまり、属人的な判断を下す男になっていたことだろう。

それは幸せな男である。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です