読み飛ばす聞き飛ばすファンは作品を語れるか

文芸批評を読んでいたりすると、「そんなに作品を細かに読んでいる奴なんかいない」と思ったりする。
そもそもだが、小説は読むのにカロリーを随分と消費する。読み飛ばさないで読んでいくと、目もどんどん疲れてくる。
クラシックの交響曲を作業用BGMにしている人は少なくないが、主題の展開だとか、他楽器の主旋律の装飾、テンポや強弱など、交響曲と真剣に向き合いながら聞いている人でないと、聞き落としてしまう部分は大いにあるだろう。
私が見たこのオブジェと、他人Bが見たオブジェは本当に同じオブジェなのかどうかは置いといて、例えば、BGM的に音楽を聞き流していた人に、後に「作品の展開」「使用楽器」などの問題を出すのと、作品をしっかり聞いてきた人に問題を出すのとでは、精度が違うだろう。
作品の全容と語る資格
ある人物が、ドラマ「フルハウス」のファンだと主張したとして、実はフルハウスを3話しか見ていなかったとする。その人物がファンと呼べるかどうかはともかく、「ファンちゃうやんけ」とツッコまれることは間違いなしである。
「フルハウス全エピソードの8割を視聴している」ものは、堂々とファンを名乗れるだろうか?
フルハウスは続きものではないので、2割を未視聴だからと言って、話のスジが分からなくなるといったことは起こらない。
これが続き物のドラマだと、2割の未視聴は話のスジが分かるまで、数話を要するだろう。それに、最後まで何がなんだか分からなくなる可能性もある。
(「この男は、前まで高校の教師だったのに、なんで急にマフィアのボスになってるんだ?」)
視聴者が批評家のように作品を鑑賞する必要性・モラルを私は提唱しない。だが、「ファン」を名乗るためには、ある一定水準以上の鑑賞量を要求する。
(質も同様に。BGMとしていくら交響曲を聞いたって、そんなのは鑑賞にカウントすべきではない)
理由は、誰も彼も「ファン」を名乗れるようになってしまうと、本当のファンに申し訳ないと思うからである。作家・作品を熱心にフォローしているものと、触りしか鑑賞していないものに、与えられるべき位格は別であるべきである。私がクリエイターならそうする。
一見さんだとか、ニワカファンはそのジャンルを維持するために必要だが、オタクだとか批評家、同業者に向けた創意工夫は、無視されるべきではない。
アーティストは、昔からのファンを喜ばせようと躍起になっている。その営みと努力に、目を向けてあげるべきである。
慣れとテンポ
Wikipediaの「アゴーギク」の項目に、興味深い書き込みがあった。
「曲を一定のテンポにロボティックに演奏すると、段々と観客はそのテンポが微妙に遅くなっていると感じる」といったもの。
MMAジムのトレーナーFiras Zahabiが、「同じ技でも、一度見た技は遅く見える」と主張していたが、同様の現象だろう。
観客は、曲の終わり方・締め方・クライマックスにワクワクしながら音楽を鑑賞するが、その「クライマックスを見たい」という欲求は集中力へと変換され、結果的に曲が遅く聞こえる。
(曲の冒頭と、同じテンポであってもである)
アーティストは、ライブだと通常録音盤よりもテンポを早く演奏するが、これは少ない演奏時間でより多くの曲を演奏するためと言った実務的な事情よりも、観客のボルテージに無意識から影響されていると見なした方が良い。
(演奏者が、その曲の演奏に飽きているのと、ヴォーカルならばゆったりしていると息が続かない・体力をより消耗するといった事情も無視できないが)
小説の読み飛ばしとファン
小説を読む楽しみの大部分は、冒頭で提示された登場人物が、最後にどういった結末を迎えるのかワクワクすることである。
ガッカリすることもあるだろうが、そのガッカリも含め鑑賞の喜びだ。
(打ち切りエンドのようなエンドは除く)
私もやってしまうのだが、どんなラストを迎えるのかワクワクしすぎて、小説の本筋に関係がなさそうな部分を読み飛ばして読んでしまうことがある。
前述したように、読み飛ばしてしまうファンは読み飛ばさないファンよりも位格は低い。案として低く見積もられるべきだが、開き直って「読み飛ばされてしまうような文章を書いた作家が悪い」と主張してやろうかとも思う。
半分冗談である。
「小説を読み飛ばしてしまう」クセを直したい人におすすめの療法は、小説を愛でることだ。その作品を読み終えてしまうことを名残惜しむ心を持てば、仔細に渡って読むことが出来る。
ただ、読み終えてしまうことを忌避しすぎると、反対に「ラストだけ読まない」現象が発生する気がしないわけでもない。そんな連中、世界に50人ほどは存在するだろう。

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