パクリと類似の先入観の枠組み

カジサックことキングコング梶原のYouTubeチャンネルに、オール巨人が出ていた。

オール巨人はその動画内で、2019年のM-1の総括をしていたのだが、その中で気になったのが

「ミルクボーイのネタは、ミヤコ蝶々・南都雄二の

昔の古い漫才である『運と災難』の変形だ」

と語っているところ。

「運と災難」の漫才は、YouTubeでも確認できるが、正直どこが似ているのか、変形なのか分からない。

漫才というのは、設定・前提の上で「二人(以上の人間)の会話」である。であるからして、当然漫才というのはそれぞれどうしても似てくる。

「ツッコミ(側)から話を展開していき、推理を進めていく」と、ミルクボーイ漫才になるが、運と災難にそのような推理も見当たらない。

ビートたけしが、若手のネタを見て、「全部やったことあるパターンだと思う」とどこかで語っていたのを覚えているが、

  • 既存のパターンでしか理解できない
  • 既存の認識の枠組みに回収されてしまう

ことに過ぎないのではないかと、疑っている。

本当に似ているのか パクリなのか

「ゲルニカ」のコピーみたいな絵を描いた人が、「ピカソみたいな絵を描く人」「ピカソのパクリ」という感想を抱かれても不思議ではないが、抽象画を描いただけなのに「ピカソみたいな絵を描く」を思われてしまうのは、異議を唱えたい。

アート界隈も一枚岩ではないので、「抽象画の存在意義は現在において消滅している。抽象画とは、つまるところピカソのコピー・パクリである」と主張している人もいるだろう。

しかし、まるっきりのコピーでもない限り、既存作品とはどこかに差異がある。類似していようと、まったく同じ作品というのはまずない。

だが、「〇〇の作品は、皆金太郎飴のように同じだ」という主張も分かる。

ある恋愛小説家が、毎回失恋で終わる作品を書いていたとしよう。舞台はいつも大学で、ヒロインはいつも大人しいタイプ、主人公も同様に草食系で、その主人公にはコメディタッチな親友がいる。

この「パターン」の小説を、5つ書いたとする。読者・ファンは、「またかよ」「結局結ばれないんだろ」と予想してしまうことはあり得る。

(パターンというのは、基本的に3回続ければパターンとして認識される)

そこで、作者が「5つの作品、どれも似ていない。最初の作品は出会いが大学だが、2つ目は大学からだし、別れ方もそれぞれ違う。各主人公・ヒロインの経済状況も違う」

と、反論があったとする。この反論も、おかしくはない。

登場人物の年齢以外は同じ2つの小説というものを想定してみても、男性25歳:女性25歳のものと、男性25歳:女性10歳のものは、作品として大きく異なると見なすべきである。

だが、年齢が30:30なのと、40:40の年齢以外同じ小説で、受け取る印象はどれくらい違うだろうか? 同一作品ではないにしろ、それは「類似」「相似」「パクリ」の範疇に入る気はする。

先入観と類似

二つの作品が似ているから似ていると感じるのではなくて、あなたがまず要素・形式・パターン・構造という抽象概念を使用できなければ、”似てる”なんて概念はなくなる。

テレビで見たが、犬は自分の名前を認識できている。「名前」を呼ばれたとき、それが自分を指すものだと分かっている。だが、お父さんの言う「ポチ」と。妹のいう「ポチ」は音の高さが違うため、それぞれ違う「ポチ」A 「ポチ」B として認識していると聞いた。

本当かどうかはともかく、興味深い話である。カラオケの採点機能で、「合ってる」と認識されるのは、その音の高さと±四分音の範囲である。

ヴァイオリニストのハイフェッツのヴァイオリンを、0.5倍速にしてもまだ音程が正確に聞こえて、0.25倍速にしてもまだ音はちゃんと取れている。だが、一流ヴァイオリニストであるヒラリー・ハーンだと、0.25倍速でかなり音に乱れが生じる。

今世間で、「ワンパターン」だとか「金太郎飴」と揶揄されているアーティストにしたって、本当は作品ごとに細かな工夫を使い分けているかも知れないのだ。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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