ポリコレの極北

インターネットの出現によって、人間の無意識がさらけ出されるようになったと「超ポリコレ宣言 欲望会議」に書いてあったが、それまで抑圧されていた言説が、より人目につくようになったのは間違いないだろう。

本書では、現代人の無意識の消失、配慮の無い言い方ならば「SJWの無意識の否認」に言及されている。……「傷ついている」「怒っている」と主張する人たちに、「あなたの本当の問題はそうではない」「あなたは怒ることにより、快楽を感じている」「あなたは架空の人物に、憑依してしまっている」と言ってキレられるのは当然だろうとも思うが、有名なドリル穴理論を人間のコミュニケーションが交わされている象徴的な次元に転用すれば、それほどケッタイな指摘でもないだろう。

精神分析的には、我々は欲望の次元から逃れられない。

「超ポリコレ宣言 欲望会議」62ページ※発言者は千葉雅也

(象徴と言っても大それたものではなく、言語それ自体が象徴であることに留意して頂きたい)

この本はかなりトピックとして際どいところを攻めており、フェミニズム、同性愛、同意の曖昧な性行為などの議題に対し、ブレーキを踏まずに議論が交わされている。

本書では、「ポリコレによる検閲」の是非に対し意見が交わされているが、「傷」を根拠にして表現の表層を規制しようとする世の流れに対し、三人の発話者(千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英里)は概ね否定的である。

さらに、ポリコレとは基本的に「反プライバシー」であるとも述べられており、本書では「表現の自由」が、忘れられる権利と対立する概念と示唆されている。

いわゆるSJWや「ツイフェミ」、LGBTの運動など、現在の言論界で大きなトピックである問題に軒並み触れているので、読んでおけばポリコレ及び検閲に対する見識を深められるだろう。

SJW側からすれば、本書は悪質なプロパガンダに過ぎないだろうが、プロパガンダならばそれを否定的媒介としてSJW側の理論を補強すれば良いだけだと思うのだが、間違っているだろうか?

抑圧と快楽

同性愛に強い嫌悪感を持つ人たちは、同性愛者である可能性がそうでない人よりも高いという調査結果がある。

性的指向に関しては、訓練やセラピーなどではどうも出来ないと考えてるポジションを私はとっている。しかし、嫌悪感がズレる感覚というのはよく分かる。

人間の感覚を司っている、擬似的な物理法則を司っているのが、人間の無意識だ。人は何かを感じる際に、いちいち考えない。反応がまず先にあり、その後に諸々の感情が生じる。

怒りというのは、恥が「外部」にあると認識したとき、あるいは恥を外在化させようとする心の働きだ。内部にあると、それは悲しみとなる。

恥とは禁忌を侵犯したモノ・結果・結節点であり、倫理的不快である。倫理的に不快なものへの攻撃と除去が、快楽でないはずがないのだ。

また、快というのは不快とセットであり、スウェット・ロッジのように、我慢がなければ発生しないものだ。

「嫌悪感が反転して、快楽となる」のではなく、嫌悪感という毒に耐性がつくと、それを飲み込めるようになる。耐性がつくと、より大きな「快楽」を求め、極性化して行く…

SMプレイなら、肉体という物理的制約があるが(それを乗り越えてしまう人もいる)、正義の実現には物理的な制約がない。

罪を犯そうと思っても犯せない、SF的なユートピアあるいはディストピアなら、ポリコレ的理想世界を実現できるかもしれない。

たわ言かも知れないが

フェミニズムとマルクス主義は、出自も主張もまるで違う。それでも同一視されて一緒くたに扱われてしまうのは、どちらも検閲と表現規制を要求しているためだろう。(なお、ここでいうフェミニズムは、第三次以降のものを指している)

「フィクションと現実を混同するな」と、「これに傷ついている人間もいる」「これが犯罪を助長する」。

正直なところ、私は表現規制に関して強い意見を持っていない。ただ一つ皆さんに覚えてもらいたいのは、男の女の出生率は、男の方がわずかに高いということだ。つまり、男児を計画的に間引かない限り、選挙による女性の専制政治は実現しない。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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