笑われることを引き受けるイメージ戦略

「ホラーマニア」は、例外なくホラー映画を怖がっていないだろう。ジェイソンだとか殺人鬼が出る場面で、ゲラゲラ笑うのがホラーマニアだ。私のような怖がりは、ホラー映画の気配があるところすら避ける。

意地が悪いなと思うのは、ホラーマニアはホラーを作り物として楽しんでいることだ。製作者の意図とは違う角度で鑑賞するのが、どれほど崇高な行為なのか彼らが考えているのか知らないが、貧しい営為であることはここで断言する。「作り手の意図」を考えるのは、業界人と批評家だけで良い。

しかし、このスタンスを私がとっているときに、謎・判断に困るものとして対峙してくる存在がある。ケイティ・ペリーのPVである。

サイトが重くなってしまうので埋め込みはしないが、これなんかは確実に自ら笑われに行っている。PVの構成を担当しているのは、もちろん彼女ではない。そして、彼女は「ミーム」の素材になることを受け入れている。

戦略的に「ボケ」の位置に行こうとしている。

メンバーが斬新すぎることで有名なジェニーハイのこのPVと、先ほど記したPVの違いは、ジェニーハイの映像はまだまだ「笑われ」要素が足りないことだ。統一された色調、キャッチーな振り付け、意味のわかる歌詞。それを「悪い」とは言わない。

定期的にスベる必要がある

「笑われ」るためには、定期的にスベる必要がある。江頭2:50だとか、出川みたいに自らアクシデントを起こしに行ったとしても、そこにはいつか「職人芸」「スタントの心得」「技の受け方」などを見出されてしまう。

大喜利AIの面白さ、ご長寿早押しクイズの面白さは、そのままアクシデントの笑い、ノンフィクションの笑いに支えられている。

キングコングの西野は、もうあんまりバカにされない。彼が経済的な成功を収めたからである。2019年の4月ごろに、彼の行った大学の卒業スピーチが「カルト宗教みたい」「自己啓発セミナーみたい」と批判されたが、これまで「かつてないほどの思い上がったアホ」だった時期からすれば、大いなる進歩だろう。

笑われる勇気

ご本人には少し申し訳ないが、ブルックナーには「笑われる勇気」があったと思う。延々と続く金管のフレーズの繰り返し。爆音。乏しいオーケストレーションのバリエーション。ソロで楽器を目立たせない。

オーケストレーションが上手でなかったのは確かだろうが、それでも己の芸術を貫いたブルックナーを、私は密かに尊敬している。

「稚拙さ」は、歴史の流れの中では問題にならない。芸術史のなかで生き残るのは、まず第一に「個性」がある作品だからだ。技術のまずさは、「個性」あるいは「神秘性」に変換され解釈される。

完璧さは一つのスタイルであって

何をもって「完璧」とするか。「完璧な作品」あるいは「文句のつけようがない作品」とはなんだろうか?

「完璧な作品」と人がそれを評価するとき、「均整がとれている」か「バランスがいい」「瑕疵がない」「歪みがない」が大抵後に続く。

素晴らしい作品であっても、それが歴史に残るようなものだったとしても、「歪」な作品が「完璧」と評されたりはしない。

コルサコフの「シェヘラザード」は、「完璧な作品」の一例だろう。

しかし、鳥山明の「ドラゴンボール」はそうではない。もちろん素晴らしい漫画だが、「完璧」だとDBを評価する人はいないだろう。

ツッコミどころ、嘲笑のポイントがあればあるほど「完璧」からは遠のく。

……「ミーム」の素材にならなくとも、笑われなくとも、人はまだ成功できる。そしてそれは、笑われる道よりも難易度は高い。「古典的」であろうとすることは、難しい。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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