ロラン・バルトにとって詩のエクリチュールとは何なのか

詩というのは、ロラン・バルト曰く、単に散文の短いもの、あるいは韻律が考慮されているものであった。内容はとにもかくにも、ルール・様式にさえ従っていれば詩だったのである。

バルトはフランス人なので、彼の念頭にあったのはおそらくギリシャ古典の詩などであろうが、中国や日本でも同様であると言える。

また、古典的な詩のシーンにおいては、詩における「愛」や「夢」は、その当時市政の人々がいう「愛」あるいは「夢」と変わりがなく、百科全書的である。あるいは、「一つのことを言うためには、一つのことで十分である」信念のもと詩作が行われている。

また古典時代においては「芸術」なる概念も、今日現代人が抱いている抽象的な価値や美を追求する営みだともみなされておらず、文章上の技巧や屈曲さえあればそれは芸術作品なのであった。

(感受性の結実・発露ではなかった)

二人の男がステージの袖から出ていって、なんとなくしゃべればそれは形式上・ガワの上では漫才かも知れないが、漫才とは到底言えない。

バルトはランボーから始まる近代詩(現代詩)と、古典的な詩と全く別個のものとして規定する。バルトが詩として念頭においたのは、転倒した散文だ。

思惟があり、それを表現・市井の人に伝達するための文ではなく、詩とは語(モ)が観念(イデー)を形成していくものである。もちろん優れたものやそうでないものはあるだろうが、内容における形式だけに準拠すればそうなる。

語られるもの、書かれるものというのは、通常報道的である。なにか情報があり、それを伝えるために語られる。和歌や古典時代の詩はそうではないが、これらは韻律や形式など言葉の自由さを制限した上で表現されるコンテンツである。

試作という営みを、暗示的・象徴的に事物を表現したものと見なすことも不毛ではないが、それらはバルトにとって古典時代の詩の延長線上にある(散文に表現上の規制が加わったもの)ものだ。

言葉とはコミュニケーションの手段であり、流通あるいは報道、小説ならばプロット・ストーリーを運ぶための道具として用いられるのだが、そうではなく、客体として屹立する語(モ)を編む営み、それが詩だ。つまり、読者や著者の抹消を理想的には達成していなければならない。

身もふたもないことを言ってしまえば、バルトにとって詩とは言語による(抽象的な理念における)絶対音楽の希求・追求である。

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桜田真助
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    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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