不良品は生まれない

松本人志の「不良品」発言の、顛末を振り返ってみる。

彼がそのメッセージを発信したのは、毎週日曜日からおよそ1時間放送されるワイドショー番組「ワイドナショー」においてだ。松本は「何万個かに一個、必ず不良品というのは混じる」と、川崎市多摩区で発生した通り魔事件に対してコメントした。

彼がこのとき「不良品」と述べたのは、文脈から判断するに「川崎市の通り魔」である。通り魔のターゲットは小学生の児童で、実際に小学6年生の女の子と、引率の大人の方が一人亡くなっている。

悲惨な事件であり、犯人はおそらく「拡大自殺」を試みたのではないかと言われているが、もう死んでしまったので、話も聞くことができない。

(「死にたいなら一人で死ね」というメッセージの是非を問う議論が、川崎市の通り魔事件に触発され交わされていた。…私は「一人で死ね」とは言わないが、「大人しくアル中になれ」とは言いたい。あるいは「大人しくヤク中になれ」)

松本の「不良品発言」はそれなりにバッシングを受けた。ナチスの優生学につながるだとか、差別的だとか。松本が叩かれた理由をポイントでまとめると

  • 人を「良品」「不良品」という、非人間的なワードで表現した。
  • そもそも嫌われている
  • 優生学に繋がる危険性がある
  • 事実上の「生まれながらにしての、「悪」は存在する」宣言である

アメリカだと、普通の人の想像力を超えてくるような犯罪者に対して「モンスター」と言ったりする。あれは、「この人物も私と同じ『人間』である」事実から、少しでも逃れたいのだろうか?

人・人々に対して、侮蔑の意味を込めて非人間的なワードを用いる行為…「豚」だとか「シラミ」「ゴキブリ」「サル」など、これらが差別の走りだというのは、私は知っている。

「どんな子どもにも、無限の才能があり、可能性がある」と考えることは、素朴すぎるかも知れないが、松本の言ったことは「親や学校、社会がどれほど尽力しても、救えない「子ども」がいる」というのと同じだ。バッシングする人も、そりゃ出てくるだろう。

歪みは必ず生じるのか?

リアリスティックに考えよう。学校のいじめはなくならないし、交通事故も根絶できない、児童虐待も発生する。

これらを根絶することは不可能だが、根絶を目標とすることはできる。言葉遊びのようだが、「もう半分しかない」と思うのか、「あと半分もある」と思うのとでは違う。

では、「不良品」は生まれるのだろうか?

信仰に近いが、私は「不良品は生まれない」と宣言したい。

今まで、色々と陰惨な事件を犯したものの足跡を見てきたが、虐待を受けていたり、尋常でない両親に育てられるなどしている。

もちろん全員ではない。ベガスのコンサートで無差別の銃乱射を起こしたステファン・パドックだけは、情報だとか動機などがまったく見えてこないの。かつての会社の同僚なども、「彼はそのようなことをする人には見えなかった」という。

大量殺人犯だとか、誘拐監禁犯、いわゆる「モンスター」と呼ばれるような人たちも、平和に生きていや未来はあり得たと言いたい。

(「彼らが無人島で生まれ育っていたとしたら…」ではなく、我々と同じ空間社会に生きていたとして)

2018年の10月の12日から14日にかけて、ニューヨークでは25年ぶりに銃撃事件が発生しない週末だったらしいが、私はこの「偶然」を提示したい。

チャールズ・マンソンが、奇抜な”問題行動の多い”程度のトラブルしか起こさなかった人気シンガーであった世界軸、ヒトラーが絵葉書の職人をしている世界軸、麻原彰晃がビビって何もしなかった世界軸、少なくとも、私は想像できる。

松本人志が「不良品」と呼ぶような人であっても、そのものが”まっとうに”生きた。あるいは、松本のようになっていた。あるいは、松本が彼の言う「不良品」のようになっていた未来はありえた。そう言いたい。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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