精神分析と投影理論の前提

アンティファこそがファシストだと批判する人は大勢いる。 

「やつらはアンチ・ファシストだと言っているが、言論の自由を制限しようとしたり、メディアによる検閲を推奨したり、GoogleやFacebookのBANを推進している。それに、メディアはアンティファに対して否定的な報道をあまりしない。ファシストじゃないか」

ここで、「”ファシストそのもの”であるアンティファが、アンチ・ファシストを名乗っているのはなぜか?」を説明するため、投影:Projectionの概念で説明する人が大勢いる。

投影とは、ここのウィキペディアのページにある通り、自分の中の否認したい性質を、誰か他の人に帰属させる心の働きのことを言う。自分が嫌いなのに、相手の方が自分を嫌ってると思ったり、浮気している人が、相手の浮気を疑ったり……、よくあることだが、ゲイをいじめるのは隠れゲイだったりする。

…この投影セオリーに限らず、精神分析全体に対する批判として、なにか不満や苦しみに対し

「あなたはこれに苦しんでいるといったり、これが欲しいと言っているが、ほんとうはそうではないのだ」

と、体制維持に利用される危険性があるとの指摘がある。それはそうだと思う。

投影と願望

ポルノ映像産業を見てみると、ありとあらゆるジャンルがある。”一般的”なものなら、誰が楽しむねんというものまで。

小柄な痩せたおじさんを、背の高いがっしりした女性がひたすらパンチする映像作品を見たことがあるが、誰がこれに興奮するんだろうなと思った…

明らかに言えるのは、これらの表現が(主には男性の)願望が反映されてることだ。こういうことをされたい、経験したい、存在してほしい。

しかし、「フィクション(鑑賞)でしか楽しめないような表現」はしかとある。ハードコアなポルノは大体そうだろう。

フィクションを鑑賞するのは、それを実行したいからだという主張は、短絡的だ。グランドセフトオートの購入者を、犯罪者予備軍として見なすのは行き過ぎている。

それが「現実にできないことの代わり」=代替物であろうと、我々がフィクション≒作品を鑑賞するのは、あくまでも「そのフィクションを楽しみたい」からだ。…ということにしないと、北朝鮮のような検閲社会でしか、正義が実現できなくなる。

広義のアートは、その絢爛さ・巨大さで支配者の富を象徴的に現し、権威装置として機能したり、逆に民衆の苦しみを表現したりする。政治とアートは切っても切り離せない。…しかし、全米ライフル協会の有名な発言を引用させてもらうと、「銃が人を殺すのではなく、人が人を殺す」。そもそも、政治利用できないモノ・コトなど存在しない。

話を戻すが、例えば貴方が「”あなた”に対し忠実で、いつでも言うことを聞いてくれる人」の映像作品を探しているとしよう。

ここに、先程の投影理論「誰かに対して忠実でありたい。奴隷でありたい」欲望を投影していると言えるだろうか?

ナンセンスである。むしろ、「忠実な人を欲しがっている」と、”グランドセフトオート購入者は犯罪者予備軍説”式に説明した方がより納得がいく。

結局のところ、どっちなのか?支配したいのか、されたいのか。…ここで、確実に言えることは、”わたし”が、「なぜフィクション≒作品を人は鑑賞するのか」気になっていることだ。

“確実に言えることは”と書いたが、もちろん確実には言えない。それは原則である。

フロイト・ラカン的な意味での”精神分析”とは、こういったメタ・資源に迫らんとする分析であり、個人の動機当てゲームではない。ラカンは臨床心理士ではあったが、彼の臨床理論はクライアントの願望のメタのメタ=無意識を臨床医に向けさせ、生き難さを軽減されることだった。

投影理論は、統計的に求められるものではない。臨床心理の体感では求められるかもしれないが、それは科学ではないだろう。

精神分析に限らず、あらゆる理論には前提がある。投影理論の前提は

  • 人は、不快なものを退け快を求める
  • 不快なものが、自分の内部に確認できたとき、人はそれを取り除こうとする
  • 責任は、誰にも取れない
  • 責任というものが、誰にも取れないことを、人は無意識で分かっている
  • “責任”は、主体性=オーナーシップ=主体意識のなかでしか発生しない 
  • “罪”を犯したのは、自分ではない
  • よって、“わたし”は、罪を償う必要がない
  • しかし、わたしは”罪”を背負わされている
  • 誰かが、不当に”わたし”に対し”罪”を負わせた
  • その”わたしに対し”罪”を負わせたものは、罰せられなければならない”
  • 罪を犯したものが、 誰なのか分からない
  • 誰なのか分からない”曖昧性”は、人にとって不安である。
  • 敵がいるのはわかっており、その敵が誰なのか分からない状態よりは、敵が誰なのか分かっている状態の方が、人間にとって不安が少ない

およそ、このようなものだろう。これは、明らかに科学ではない。反証可能性だとか、実験可能性がないからだ。

…「私はうらまれて当然だ」「私は誰よりも罪深い」「私は愚かであり、なにも分かっていない」とほんとうに思っているのなら、誰かに対して怒ったり憎んだりすることはない。

「私はなにも悪いことをしていないのに、罪を背負わされた」と認識したとき、初めて怒りだとか憎しみが生まれる。悪あるいは恥が内部にあると、それは悲しみだとか恥という感情になる。

(憎しみとは、安定して継続する怒りである)。

追加:当たり前すぎて忘れてしまっていたが「罪悪感は不快である」との記述が漏れていた。

人間が、いかに言外の情報を元に思考しているか、実例を見せつけられた気がする。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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