権威に訴える論証と嫌悪感

正しい人の言うことは正しい。間違った人の言うことは間違いだ…

権威に訴える論証の反対は、人身攻撃だとWikipediaに記述があった。人身攻撃を日本語の一般語彙に変換するなら、人格攻撃になるだろう。

対人論証の説明欄に、例として「麻原彰晃の作った歌だから、きっとおかしいだろう」といったものがあった。

「論理的に、それはおかしい」あるいは「退けられるべきだ」という意見は分かる。

しかし、例えば「宅間守のすべらない話」なるものを想像できるだろうか?あるいは、「宅間守の爆笑コント」でもいい。

宅間守が人気の芸能人だったとして、彼の過去の活動が映像記録に残っていたとする。

そのとき、誰かに刺されていれば良かったのにと思う気持ちを抑えながら、人は彼の作品を作品として見れるだろうか?

嫌悪感・違和感

英語圏版の「〜だけど質問ある」は、Ask Me Anything である。

Redditに、いつだったかの話か忘れたが、有名俳優と有名女優のカップルの息子がAMAをやっていた。

彼曰く、両親が出ている映画は、普通には見れない。どうしても生活がよぎる。

ただし、両親が若い頃なら、それほど気にせず映画を見れる。…

ありそうな反応だと思う。

例えば、作品と作者、俳優の背景と実際のキャラを区分しようとしたって、抗えないような感情を抱くことは十分あり売る。

宅間守の作品と、自分が宅間守の個人的経歴に感じる嫌悪感は、区別されるべきである。

だが、自分には出来ないだろう。自分の感じ方、信じ方、信じていることを、自由自在には変えられない。

半信半疑は疑である

先入観は、”信”が凝固して固体化したものと考えていい。”疑”は、存続が難しい。

半信半疑は、ほとんど疑である。少なくとも、信よりは疑に近い。

何かを述べるためには、まず信じることなしに信じる必要がある。

”ウサギ”がほんとうにあの”ウサギ”なのかいちいち疑っていれば、日常会話もままならない。

人間は、不安を抑圧し、退ける傾向がある。疑は不安に属する。

青少年と大人の違いは、原初的な”疑”の多寡で区分できる。

フィクションの哲学

フィクションとノンフィクションを明確に区別できる指標はあるか。記号的に区別できるのか。

フィクションの哲学の結論は、「そんなものはない」だ。フィクションなのかノンフィクションなのかの区別は、慣習的なものであり、環境により依存すると本書は結論付けている。

哲学は原理原則を語るべきものなのに、なぜ一冊との本を費やして、原理原則がないことを言わねばならなかったのだろうか? 

それは分からないが、原理原則がないと分かることだって、証明たりうる。比喩的に、「この少数は、循環しないことの証明」と比較できる。

帰納法の可否~全ての女(男)は~

『「男(女)というものは…」という話の始め方は、一つの性別を一括にしている。だからダメだ。許されるのは、「私の出会ってきた男は皆…」である』

こういった主張も分からないではないが、「男(女)というものは…」と話をはじめる人も、命題が全ての女に当てはまるとは考えていない。これは、経験から導いた言葉である。

更に言うと、「全ての女(男)は~」と話を進める人も、ほんとうにはセオリーが全ての性別Xに当てはまると主張していないことが大半だ。

砂山のパラドックスにしてもそうだが、人間は厳密な言葉遣いをしないし、限りなく厳密な言葉遣いをしようとするものは、変わり者として排撃される。

桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です