自由と責任の恣意的な番われ

任意の対義語として、「強制」を設定できる。そして、任意と強制に共通する前提があり、『それは「任意」であるか強制であるか決定できる主体』の存在だ。

私と読者の大多数が住んでいるであろう日本国では、「職業選択の自由」が憲法上の権利として認められているが、日本政府は「職業選択」を破棄した一国民に対し、「あなたはこの仕事をしなさい」とオファーはしてくれない

働かない権利」なるものがあるらしいが、これは主に身体の不自由な方、いわゆる「障害者」のためにある概念であり、「健常者」は射程範囲に含まれていない。

いろいろ小細工をすれば、健常者(身体的にも、精神的にも)であっても生活保護を貰いながら、働かずに生きていくことも可能だろう。しかし、行政側に「この者には働く能力がある」と判断されてしまえば、取り上げられる程度の儚いものである。

かなりジャンプの多い結論・理論的帰結を述べるが、「自由」には強制性がある

国民の下僕たる政府

忘れがちだし、理念的な意味でしかないが、民主国家の主権は国民にある。つまりどういうことかというと、自由は政府から与えられたものではあっても、その”政府”は国民の上位者として君臨しているわけではない。

古代、人の上に立って人を支配していた王とは、まさしく我々のことを指す。ただ、あくまでも一人一票しかパワーが無いので、王である自覚は難しいだろうが…。

日本は間接民主制国家であり、法案を投票で直接賛否を問うたりできないが、政治家を選ぶことは出来る。

あまり言いたくはないが、ほんとうは政治家を批判するのではなくて、国民=有権者を批判するべきなのだ。だが、有権者を批判したってメッセージに有効性が含まれないので、ほとんどの人がやらない。

政治家とは、あくまでも政治の代理人である。変な言い方になるが、国民の代わりに立法を担当しているのが政治家であり、国民が主権者であることを、皆さん認識してらっしゃるだろうか。

自由と責任は番いではない

「無制限な自由は存在せず、自由には責任が伴う」

美しいステートメントだが、別にそんなことはない。

自由とは、裁量である。”決裁権がある”くらいのニュアンスでしかない。

誰かに損害・被害、精神的苦痛を与えたとしても、その償い(賠償あるいは贖罪)は、恒常的なセットでやってこない。

(戦後、ドイツ政府はユダヤ人遺族やイスラエルに多額の補償をしたが、あれもあくまでもドイツ政府が任意のもと行ったものであり、国際法やらなんやらで強制されたわけではない)。

しかし、法律を無視して好き勝手やる人間は、それなりの制裁が加えられる。例えそれが、良心に従った結果だとしても。

自由=裁量が無制限ではないからだ。北斗の拳の世界のような、核戦争後の世紀末世界でもない限り、無政府状態は発生しない。

では、”法律を恣意的に無視できる独裁者”=古代の王が自由の理想状態かというと、彼らは彼らなりに裏切りや謀反に日々心配を割いており、心理的には圧迫を感じている。専制政治の主体も、それなりに気苦労があるのだ。

独裁者にとって責任とは、報い=報復である。法ではなく、不文律によってしか裁かれない。

マナー=不文律は、法権力・権威・暴力装置を伴わないが、我々が生きているこの世界は、法律さえ侵犯しなければ、脅威を感じずに生きられるようできていない。心理的には、法もマナーも同位相にある。

最も自由を享楽している主体

もっとも自由を享楽している主体を想定するとすれば、世界を陰で支配する組織・人になるだろう。(おそらく)存在しないが……。

自由は、それを保証する・与える主体があなたの存在を感知しないまま、意のままにならない限り、必ず責任あるいは報いの可能性が伴う。

アホらしい話だが、この過程をさらに推し進めると、絶対に…は物理上不可能だとしても、限りなく知られる可能性は低くなる必要がある。

しかし、理想の実現は不可能だとしても、そのような理想的な自由を享楽する主体に、近づくことはできる。

あなたの存在を知られることなく、誰かをコントロールすれば良いのだ。そして、その者の主体性=責任・報復可能性、裁量を奪えばさらに近づく。

誰も責任を取らない組織・報いを受けない組織とは、事実上の専制政治状態にある。 

責任・報いを受ける主体を、組織と切り離すシステムが確立すれば、自由の理想状態を享楽する主体が生まれる。具体的には、教祖あるいは聖典の無謬性と権威を至上の位置に置く宗教組織などがこれに当てはまる。

自由は存在するが、責任は存在しない

人権・基本的人権などというものは、極限状況においては屁のように消え去る儚い概念だ。

そもそも、働きたくない人に働かない選択肢を無条件に与えないのだから、勤労の義務が人権に先立っている。

責任:Responsibility という概念は、概念使用者が神を信じているかいないかに関わらず、どこまでも宗教的な概念だ。

”自由”とは裁量であり、それをモラル・コード=ルールで制限しようとしたとき、「あるべきもの」として喚び出されるのが責任概念である。責任を罪と言い換えてもいい。

ニーチェみたいなことを言ってしまったが、概念それ自体が”モラル”を、アクティベイトするための動力としている概念は数限りない。

無意識に染み付いているので、言語からそっくりそのまま”モラル”をスリープモードにするのは困難だが、試してみるのは大いに意義があるだろう。

(モラルは、先行して現れない。責任とは、リアクションの産物と言える)

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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