イデオロギーとノーリスク

向上心が無いからといってバカであるとは限らないが、向上心を妨げるものも認識できないのは問題だろう。どこの誰が、「バカであり続けたい」と思うのか。

「真面目」であるということは、体制・システムに従順であることを往々にして指す。しかし、同時にシステムや生活環境・体制の前提、社会構造に納得できない、順応できない人物も「真面目」だと見なされる。

原理主義者的であること、ラディカルであることは、”真面目”な人物の特徴だ。それが野党的であったり与党的だったりするだけで。

でも、ラディカルに悲観的であるということは、どういうことだろうか?

自分を例外として考えること

この世界の事物・出来事を全て無意味だと認識し、ただ「自分」だけを上位の審級に置く。これを一般的に「エゴイズム」というが、徹頭徹尾、単独者としてエゴイストであれる・あり続けることは困難だろう。

ニュージーランドのクライストチャーチの銃乱射犯人にしても、彼は「西洋の人種構成の未来」について心配していた。いつ来るかも分からない未来の人種分布のゆえに、殺されるリスクと生涯に渡り投獄されるリスクを選択した。

フロリダ高校を標的に無差別銃乱射を行ったニコラス・クルーズにしても、独房に拘禁された状態の彼の元に訪れた義理の弟の「I love You」の言葉に、涙を流していた(動画はYouTubeで見れる)。

なにごとにつけても悲観的に考えてしまう人がいて、逆に楽観的に考える人がいる。シンギュラリティは起こる/起こらない。世界の宗教上のコンフリクトはおさまる/おさまらないなどなど。

楽観主義者にも程度や構造の差はあるだろうが、「悲観主義者が行き着くところが官僚や大企業の役員だとすれば、楽観主義者の行き着く先は大企業の社長である」と言えるだろうか?

なにごとにつけて悲観的に捉える者であっても、最初の一歩、成功を前提とした最初のハイリスクな第一歩を踏み出すことはできる。ホリエモンみたいな台詞を言うが、世の中にゼロリスクの選択肢はない。

先例・常識に対して疑いの眼差しを向けられるか

たくさん勉強をして、いい大学に入り、大企業に就職する。あるいは、食いっぱぐれの無さそうな専門分野を作り、博士号を取得する。

ノーリスクのアクションは存在しないので、これらは”成功確率の高い”試み・アクションであると思われている(言われている)。しかし、なんの成功確率なのか。なにをもってして”成功”たりうるのか。

この場合の成功とは、社会的な成功、名声・評判・栄誉の獲得を意味している。そして、成功/失敗の判断基準は、原則としてイデオロギー(価値体系)に支配されている。

いま、単独者Aが選択肢を任意の数で想定し、「成功」の確率の高いものを選んでいくことは「良い」のだろうか?己の「成功」に対して悲観的や懐疑的であるとき、それが失敗するだろうとなぜかの者は思えるのか。

自分の悟性に対して、信頼を置きすぎてはいないかという省察を常にすべきだ。

イデオロギーを選択できるか

イデオロギーは、まず「頭ごなしに押し付けられる」ことによって体得する。6歳より前の子どもに、自制心だとか思いやりというものは積極的に期待できない。3歳より以前なら、自我すらあやふやだ。

「イデオロギーを選択しなかった人生」に、人は満足できるだろうか?十分生きたと思えるだろうか。

比喩としての意味も込めて「事故死」に見舞わないことを願うばかりだ。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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