動物虐待と食肉・狂人は生まれ持ったものか

サイコパス、モンスター、精神病、キチガイ。これらのワードは、彼らと我々にハッキリした線を引く。
「何かのキッカケで、私はあの人のようなことをしていたかも知れない」という見地の欠如だ。
差別的と言えば差別的だが、正直わたしはどんな人生をそれまで送れば、誘拐犯になるのかも、テロリストになるのかも分からない。
(殺人は、ありそうではある)
エホバの証人の見解
エホバの証人が母体となり運営されている機関誌「ものみの塔」。そこで凶悪犯罪が多発している原因が考察されている。
原因として暴力的な家庭だとか、マスメディアがやり玉に上げられている。いかにも宗教団体が言いそうなことだ。
しかし、「対処する能力の欠如」の欄で、凶悪犯罪者を「頭がおかしい人たち」とラベルを貼ることを、ものみの塔編集部(?)は断っている。
「一般的に”狂人”と見なされる人であっても、奇妙な行動に至るまで様々な要因が絡まって起こっている」……
エラー品・欠陥品・生まれつきのサイコパスが生まれる。
生まれながらの凶悪犯罪者がいると考えてしまうと、そんな人間を創造した神はどうなんだとなるので、どんなに極悪に見える人間でも、「生まれつき」そうだとは決して捉えない。エホバの証人は、人を差別することを忌避していると言える。
差別の不可避性
想像することすら耐え難い事件が起こったとき、我々の防衛機制がどう働くか。
「私とこの人物の間には、共通するものがない。私がこの事件を起こす可能性などない」と捉えることにより、心の安定を図っている。
「学校からいじめをゼロにする」ことを目指している先生をテレビで見たが、仮に学校からいじめが一掃されたら、代わりに別の精神疾患が発現するだけな気もする。
「自分はもしかしたら、女の人を監禁して、数年に渡って虐待していたかもしれない」と考えることは困難だ(私含め)。
「世界の貧しい子どもたちを救うために、発展途上国で孤児院を経営する」私と、「女の人を拉致監禁する」私と、今の私とどちらがより遠いだろうか?
動物虐待と食肉とPETA
どっかの十代の少年3人が、野良猫を捕まえて、紐で括って自動車で引きずり回し、なぶり殺したというニュースを見た。
気分が悪くなる話だが、「どうぶつはあなたのごはんじゃない」派からすると、肉を食うことも動物を虐待するのも、それほど変わらないのかも知れない。
闘鶏に関して、私は複雑な感情を抱いている。闘鶏は残酷である。闘鶏にも色々あるが、もっとも苛烈なものでは、鶏の足に鉤爪をつけて、どちらかが死ぬまで戦わせる。
だが、闘鶏用の鶏は、食肉用の鶏などと違い、広いスペースで伸び伸び育てられ、エサも良いものを与えられる。鶏にとってどうでもいいことかも知れないが、死ぬときだって、戦士として死ぬ。
自然界は、過酷だ。天敵と戦わなければいけないことも、逃げなければいけないこともある。そんな世界からすれば、闘鶏の一生は自然界の鳥と比べてそれほど悪いのだろうか? また、食肉用の鶏と比べて、マシな人生だろうか。
それは分からない。
最近ずっと、”廃棄されるファミチキ”について考えている。どっかの養鶏場で育ち、飯を狭いスペースで食べさせられ、よく分からぬまま死に、刻まれ、揚げられ、食われることもなくゴミ箱に捨てられる。
終わりから始める
「カミュは最初、『世界は不条理である』と宣言することにより始まった。彼の晩年の仕事は、その結論である「不条理」から出発する方法の模索である」
だいたいそんな内容の文章を、どこかで読んだ。
「学校からいじめをなくす。ゼロにする」の結論は、私にとって「それは不可能である」になる。
だが、「不可能だから何もしない」のは、素敵なムーブではないだろう。
形而上学的な分野に話を移すと、「フィクションの哲学」の結論は、「ノンフィクションとフィクションを明確に分けられるような記号は、フィクション内にはない」「フィクションとノンフィクションの区別は、慣習的なものに因る」であった。
ここから始められる話は、何なのか。
一つは、「慣習的なものの見方」とは、一体どんなものなのかだろう。他にも色々この結論から話しが始められるかも知れないが、それを見つけることそれ自体に、大変な労力が要る。

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