お見合い結婚社会と男女隔離はセットである
アラブ世界・南アジア地域においては、かつての日本のようにお見合い結婚が主流である。日本人からすれば不思議だろうが、かつては日本も(というより世界全体が)お見合い結婚が主流だったのだ。しかし、これは不思議でもなんでもない。
なぜなら、かつて男女は隔離して育てられていたからだ。学校だろうと教会だろうと、男女は6歳〜おそくとも12歳ころは隔離して育っていた。
自由恋愛を謳歌しようにも、同性愛者でなければ出会いがない状況だったわけである。
自由恋愛と男女の未隔離・共生はセットである。
統一教会と自由恋愛
統一教会の信徒は、原則として自由恋愛は認められない。婚前交渉などもってのほかである(婚前交渉が禁止されているのは、アブラハムの宗教の共通項ではある。守るのか守らないのかはいずれにせよ)このような戒律・教義は、男女隔離社会においてしか成立し得ない。成立し得ないというより、成立した例がない。
成立する/しないの基準は、男女未隔離社会においてお見合い結婚を強制する集団が人口の維持・増加を図れることである。統一教会はメンバーを維持できていない。
宗教というのは別に個々の内なる平和を求める行いではないのだから、いかに信徒を苦しめようとそれは真理なのだから仕方ない・不可避である。そう考える。滅びようが、反社会的だろうが、テロリズムだろうが、真理は真理である。
だが、キリスト教系の宗教はとくに「悪しき者は現世においてもむくいを受ける。滅びる」なるドクトリンがある。ソドムトゴモラはその一例である。因果とは少し違う。「正しくないものは長続きしないようになっている」なるドクトリン。
だから、「団体・教義が衰退しているということは、我々は正しくないのではないか」なる疑問も生じる。
教義が正しかったのか正しくなかったのかは、死んでみないとわからない。もしかすると、死んでも分からないかも知れない。
だから、例えば死後に地獄に落ちるまたは蝿に転生するドクトリン・ドグマであっても、検証はできないのだ。人は生き返ることができないのだから。
婚姻と教義
一般的なキリスト教というのは世俗化しているので、たとえば配偶者が非信者・不信仰者であっても平気で結婚するが、本来はあるべきことではない。聖書は色々な解釈ができるが、「不信者との結婚の禁止」「婚前交渉の禁止」「不倫の禁止」「同性愛の禁止」これらは揺るがない。
婚前交渉の禁止と不信者との結婚の禁止はあまり守られていないというだけであり、本来はキリスト教のドクトリンに従えば守るべきことである。
自由恋愛の禁止も、聖書解釈から導き出せなくもない教義だろうと少し思う。「結婚は神聖であるから、個人の欲望で決定してはならない。目的のための結婚、配偶者は高次の目的のもと決めなければならない」だとかで。ただし、この教条は男女隔離社会でないと機能しない。

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