人見知りであるという自認と自称とアピール

人見知りだとか、ネットスラング的には「コミュ障」が「人見知り」と同じ使われ方をしているが、多少わたしのなかで引っかかるのが、人見知りを自称する人たちがある種の「被害者」側かのようにふるまうことである。

初対面の際に緊張してうまく話せないとき、居心地の悪さを感じているのは向こうもそうなのだ。 

「自分からは話題を振らない/振りたくない。そちらから話しかけてほしい/話題を展開してほしい」

そういった要請にしか聞こえないのだ。 

婉曲表現と防衛機制と優しさ 

人見知りアピールに「ズルさ」、デートの予定はなにも立てないくせに恋人のデート計画にはケチをつけるたぐいのズルさを見てとる人は少なくないが、それだけとは言えない。

初対面の際に人見知りであることを伝える、あるいはプロフィールなどに人見知りである旨を記載、常日頃から人見知りであることを喧伝しておくと、例えば初対面の際にうまく話せなかったてしても、相手に対して「あなたに興味がないわけではありません」「あなたが嫌いなわけではありません」なるメッセージを伝えられる。正確には、そういった解釈予知の注釈を添えられる。

偏差値・相対的か人見知りと絶対的人見知り

私はどうしても、「私は〜である」なる言説に出くわしたとき、相対的・偏差値的・比較対象的に考えてしまう。

平均的な日本人の”社交性”を50として、50より下回れば「人見知り」、上まわれば「人見知りではない」あるいは「コミュ強」になる。私はそのようにして考えてしまう。

だが、偏差値が50あるいは55くらいの人物であっても、人見知りを自覚している・自称して回る人は少なくない。

また、「人見知り」なるレッテル及び自認は、コミュニケーションの成功確率の低さ、成功の期待値の低さではなく、内面的に緊張や恐怖、心配が発生するかどうかの極めて内的な評価基準に拠っている。

パーティや飲み会、友人などとの遊びを頻繁に行う人物であっても、嫌われていたり好かれていなかったりする。その人物は人見知りであるとの自覚はないだろうが、コミュニケーションの成功(親睦を深める、好感度や親睦の上昇)は成せていないかも知れないのに。

コミュニケーションの目的の自覚

コミュニケーションをなぜするのか。目の前にいる人となぜ交流せねばならないのか。考え出すと不思議である。

旧知の友人と初対面の人物、あなた一人の三人で外に遊びに行ったとき、旧知の友人が席をしばらく外したとする。その場にいるのは初対面の人物とあなただけである。

このようなシチュエーションにおいて、大半の人はなんとか話を切り出して場を繋げようとするだろうが、黙って何も話さない選択肢も物理的にはとりうる。

ここで、話を切り出すべきだとは思う。お互いに無言で過ごすのは望ましくない。なぜここで(お互い)黙っていてはダメなのか。最適化あるいは効率化の視座からは出てこない「〜すべき」論である。価値観の問題。

大抵の人はこのようなシチュエーションにおいて、特に「なぜ話さなければならないのか」と考える前に話題を捻り出している。ここで「なぜ」あるいはコミュニケーションの目的そのもの、価値観・イズムに立ち返ってしまう人物のなかに、「私は人見知りである」とコミュニケーションの成功確率=親睦・好感度の上昇の如何に関わらず、自認してしまう人たちがいる。

是非フォローしてください

最新の情報をお伝えします

桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です