想像力と単純印象の限界

古代アステカのピラミッドか何かに描かれていた、心臓を取り出され、太陽神に生贄を捧げられる男の絵を見たとき、恐怖を覚えたものだった。

人身御供は古今東西珍しくないが、珍しくないからといって恐くないわけではない。

しかし、仮に「古代アステカ人は、心臓を取り出されても死ななかった」ならば、どうだろう? その”事実”に対する反応はともかく、だとすれば あの絵は「毛髪を捧げる古代日本人」程度の痛ましさにスケールダウンする。

我々は、いちいちそんな可能性ーー古代アステカ人が、心臓を取り出されても死なないことーーを意識にのぼらせない。人間は、古代人であれ現代人であれ、心臓を体外に取り出されれば死んでしまうことを前提に、無意識のデータに取り込んで生きている。

(遠い未来人が、心臓なしに生きられる技術を得たとして、過去世界を何も知らないものすごくアホな男がいたとして、アステカの人身御供の絵を「ただの古代式のダイエット風景」として見ることは想像できる)

ユニコーンを分解すれば

ユニコーンという想像上の(おそらく)生き物がいるが、ユニコーンは要素を分解すると、そんなに想像的でないと認識できる。

ユニコーンの要素を分解すると

  • 馬の体
  • ツノ

どれも、自然界に溢れているものである。この「人間の想像力が、そんなに自由じゃないこと」は、斎藤環氏も指摘している。

デビッド・ヒュームは、人間が実際には存在しない・見たこともないオブジェクトを想像できることを、「人間の想像力は、観念を入れ替えられる」と原理として提出している。

原理として提出するということは、それ以上説明しないことを意味する。

(「それは、そういうものだ」と言っているに等しい)

言葉とイメージ

哲学だとか認知科学の重要トピック。

言葉が先に来るのか、イメージが先に来るのか。

フロイトーラカンは、”言葉”が先立つと主張しており、ヒュームはイメージ(彼の用語だと、印象と観念)が先立つと主張している。

しかし、ヒュームはフロイト以前の知識人で、”無意識”という概念が、ヨーロッパに遍く広がる前の人間だった。検証はできないが、ヒュームがフロイトの著作に出会う可能世界があったとしたら、ヒュームは人間本性論をどう書いたのだろうと気になる…。

意識/無意識の区分など、言葉遊びに過ぎないと一蹴する態度も理解できるが、我々は世界を体験するとき、いちいち過去の記憶を全てダイナミックにアクティベイトしてるわけではないこと、人間は考える前に動くことがあることに納得して頂ければ、”無意識”という奇態なコンセプトも、受け入れやすくなると思われる。

…「部屋の明かりをつける」という行為さえ、無数のアクションに分割できる。我々は、いちいち「どうすれば部屋の明かりがつくのか」と悩まない。

私は、言葉=無意識が先行する説を採用して生きている。

無意識と二元論

スイッチの話を前述したが、無意識はものごと・経験を快・不快に分けていると言われている。人は快をもとめ、不快を避ける…。

これは、無意識はゼロワンの二進法(止まれ・進め)で構成されていることを意味するのだろうか?

…この問いは、「人間の無意識はどこまで厳密なのか」という問いに繋がっている。今の私では答えられそうもない。

ただ、人間の無意識が完璧に分かることはないだろう。なぜなら、無意識がどうなっているか観察する行為そのものが、無意識に影響を与えてしまうからだ。

…”期待感”を、”未来における快の到来の想定”と言い換えられるか。  

しかし、怒りというネガティヴな感情に、中毒してるような人をたまに見かける。自己破壊衝動のような、未来のために快を我慢するわけでもない不快を自ら被ろうとする人間の性質は、無意識が二進法だったとして、説明できるのか?

自己破壊衝動のような、自罰感情でさえ、快/不快の二進法で説明できるのか?

この辺りは、もっと突き詰めて考えていきたい。

想像力の限界

昨日、「もしかすると、意味のつながりの恣意性にも限界があるのではないか?」と書いた。

私は、「オブジェクトがあり、そこからイメージを我々が受け取り、そのオブジェクトの要素(色、形、大きさなど)の印象を人間が受け取る。その印象が複雑化したり、強くなれば観念:Idea となる」という認識モデルには賛同できない。しかし

「三角形と四角形の印象:Impression まったく同じな人間は存在するか?」という問いに対しては、答えることにためらいが生じる。

…少年Aの家に、小さい三角形の落書きが白チョークで書き込まれた。少年はすぐに手で消した。では、この落書きが小さい四角形だった可能世界を想定するとして、少年Aのその後の未来が、三角形だったケースとまるで違う世界は…考えうる。

しかし、”まったく一緒の未来”を送ることはあるか? 

「全く一緒」はないだろうが、”ほぼ一緒”の未来はありうる。…知らぬ間に、バタフライエフェクトの話をしてしまった。

しかし、細かい量子力学的分岐世界の想定はともかく置いといて、人間の知覚的に、仮に三角形と四角形の落書きで、人生が大きく左右されるとしたら、それ以前に悪い思い出があったか、それ以後に三角形あるいは四角形に連接する出来事がなければならない。

ヒュームならなんと答えるだろうか?

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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