笑い話が「スベる」条件とは何だろうか?

実体験を語っている限り、どれほどつまらない話だろうが、それはスベらない。つまらないな、退屈だなとは思われても。

(私の言う「スベる」は、笑いに限定している)

では、「実体験」「ほんとうに経験した話」と前もっておけば絶対にスベらないのかと言うと、そうではない。カットされるのであまり放送はされないが、バラエティ番組でスベったエピソードトークなど山程見ている。

実体験の発話行為に作為を見いだされない限り、その話はスベらない。

エピソードトークが「スベった」と見なす条件を、それを彼らが「笑える話」として提出したと鑑賞者に認識され、なおかつ鑑賞者が「笑えなかった」と感じたときとする。

昔、フジモンが「フリが熱すぎんねん」と本番中パンクブーブー黒瀬に対しダメ出ししていたが、一つのヒントになりそうな気がする。

「スベる」は、本来の用法から考え、「着地に失敗する」と言い換えられる。あるいは、立つことに失敗する。ただ、もともとそこにあるものが「スベる」ことはできない。どこかにあったものが別の場所に移動し、初めて本来の語の用法における「スベる」事態が発生する。

人はスベったとき、往々にして恥を感じる。「恥」の感情と「スベり」には、関係が見言い出せる。共感性羞恥?

「笑い」の情動は持続性がないが、「スベリ」には持続性がある。あるいは、「笑い」よりも持続性が長い。

主体Aが話したエピソードに笑ったとしても、鑑賞者Bは「主体Aは、その話をコメディの意志をもって行わなかった」と思うことは出来る。

作為とコメディ

キーワードは「作為」だろう。限定すれば、「コメディの作為」。鑑賞者の視点における主体の作為とは、「統制された意識が、特定の効果を狙ったこと」と見なせる。

作為は、事後からも見いだされうる。このとき、まず「笑い」=「緊張の緩和」が起こらず、その後に「憐れみ」が起こることはあり得る。

私に対して繰り返すが、笑えない話はたんに退屈だと鑑賞者は感じる。「スベっている」とは思わない。作為が失敗したと鑑賞者が見なしたとき、初めて「スベる」。

何かが「スベる」とき、原因は私の内ではなく、主体Aに決定意志があったと見なさなければならない。もし、話を選ぶ権限が主体Aになかったと見なしているのなら、そこに「スベり」は発生しない。

人間の情動は、他者の自由意志を前提にしている。

フリとオチと笑い

お笑い芸人は、「おもしろい話をしてください」というフリを(フリが何を意味するのか、今回は考察しない)嫌がる。それは「おもしろい話をしてください」と要請された後、「おもしろい話をすること」が難しくなるからだ。

(「おもしろい話をしてください」とフリをされた後にするべき話は、「ウケる」話に、何か共通の構造・要素は見いだせるかも知れない)

フィクションのジレンマだが、「人は、実際に起こったことに対してしか感情的に反応しない」というのがあり、その点でフィクションに人間が一喜一憂するのはおかしいことになる。「友人が事故にあった」と聞かされたとき、人は焦るだろう。その焦りは、「実は事故にあってなかった」と聞かされたとき、急にではないが、消失する。

「おもしろい話」と銘打つことと、「スベらない話」と銘打つことには、明確な違いがある。

フィクションの作者と読者は、「共犯関係にある」とよく言われる。つまり、作者と読者がともに「これはフィクションではない」と信じなければ、フィクションに対する情感は発生しない云々の説だ。

(これを、「催眠状態にある」と言い換えられるか?)

「この人が今からする話は、コメディを企図したものではない」と信じなければ、笑えない。試しに、「今からこの人がする話は、抱腹絶倒の爆笑エピソードだ」と思いながら見てみると良い。

共感性羞恥とスベり

あの誰かが「スベる」ときに感じる独特な感覚は、「共感性羞恥」と密接に関わっている。コロコロチキンペッパーズのナダルは、人がスベってる場面を見て大笑いするらしいが、違う種類の人間であると想定するしかない。

人がスベっている状況を見たとき、派生する諸々の感情は、「スベる」ことと明確に区別しなければならない。

言ってしまえば、「おもしろいと思って言ったんだろうが、おもしろく感じなかった」これが「スベる」である。そう規定しても問題ない。しかし、「おもしろいと感じなかったが、それは私の未熟さ故である」となれば、そこには「スベる」は発生しない。あるいは、見るべきポイントが有る。「おもしろいと思って言ったんだろうが、わたしは面白いと感じなかった。主体に責任があり、主体は成功を試み、失敗した」。

お笑い芸人が、テレビでよく「笑いは予想を裏切ること」と言っている。しかし、「おもしろい話をする」と宣言した後でも、難しいが人は笑える。これは、人の認知能力が不完全な故発生している事態だろうか? 人がフィクションに感動するのは、それを事実と区別できていないからだ云々。

人は、フィクション/ノンフィクションの間に、明確に認識上の線を引いている。

発話行為そのものが、「緊張の緩和」理論における「緊張」に該当しうる。笑いとは「瞬間性の喜び」「持続性のない喜び」と言い換えられるが、笑いに連結している「緊張」を「非恒常的不安」あるいは「非構造的不安」と換言できる。構造的不安が緩和されると、それには持続性が付与され、喜びとなる。

ウケようとは思っていなかった

ある関西のロケ番組で、リポーターが歩行者に「お父さん何してるんですか?」と尋ねた場面で、そのお父さんの次の返答が「いやもうめっちゃすべってるやん」。

その返答自体は面白いのだが、「お父さん何してるんですか?」なる質問に対し(それも初対面の、リポーター対歩行者の関係で)、ウケもスベリもないと思うのだが、あの瞬間、”お父さん”はほんとうにスベリを感じ取ったのだろうか?

例えば、「お父さん…」のセリフの前に、「次は、人生で大事な質問をする」とリポーターが言ってから、歩行者にその質問を投げかけたのなら、まだお父さんの質問は理解できる。

…ドナルド・トランプはレイシスト(人種差別主義者)なのかなる問いに対し、「彼は、支持率を上げるため演じているのだ。ほんとうは、有色人種を差別していない」と「彼はレイシストだ」なる2つの答えが想定できる。

ここから導き出される。「真意」あるいは「実像」なる概念は、どこまでも仮想的である。アイロニーと非アイロニーに表面上の区別がつかないように、どこまでも見る人が審級を把持している。

非意図を偽装する

「あいつほんと、いっつも寝てる。それこど24時間寝ているんじゃないかってくらい」なるステートメントは、単に「よく寝る」習慣を誇張しただけと解釈できる。

しかし、ここに「面白い表現を繰り出して、笑わせようと思った」とメタ情報を入れて見れば、これほどつまらないフレーズもない。

アドバイスではないが、お笑い芸人はいつだって「非意図」を偽装する。あたかも自分がほんとうに思っているかのようにふるまい、ほんとうに怒っているフリをする。

「今から面白い話をしますよ」と、話を始めるお笑い芸人はいない。

これは、「ハードルを下げる」かどうかではなく、もっと微妙な事情が絡んでいると睨んでいる。「今から面白い話をします」なる宣言は、ハードルを上げているのではなく、「今から思ってもいないことを、思ったかのように話します」という宣言により近い。そして、その笑い話のフォーマット(「正直な嘘話」とでも許容できるだろうか)は、確立されていない。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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