現代アートの開き直りを止めるには

「現代アートは言語ゲームに陥っている」という批判、あるいは「現代アートはクソである」「富裕層の節税対策」という言説が、そのまま現代アートの市場とマーケットを強化してしまう。

どういうことかというと、デュシャンが1917年に製作した「」に端を発する「コンセプチュアル・アートとその概念は、近代美術が目指していた「美」あるいは「美的快」という到達点をもはや目指さなくても良い道を示した。

いわゆる「クソみたいな現代アート」が、跋扈しないアートマーケットは存在しうるし、そういう世界は想像できる。しかし、”アート”の性格が元々もつ論理的帰結に至っただけかなとも思う。

現代音楽と現代アート

形式が尖った・前衛的な小説は、たいして売れない。「ユリシーズ」よりも、クリスマス・キャロルの方が圧倒的に売れる。大衆は、前衛的なものを好まない。もしかすると、「前衛的なものを好まない」消費者を、大衆と呼んでいるだけかも知れないが……。

クラシック音楽の演奏会で演奏されるのは、あいも変わらずベートーヴェン・モーツァルト・ブラームスであり、ピアニストはショパンとリストを弾く。不協和音では食えない。

例外を除き、現代音楽は演奏されない。

ところがどういうわけか、現代アート市場は”大衆の好み”とは懸隔を経て成立しているように思われる。これはどういうわけか?

少し考えたら分かることだが、アートを所有できる者というのは限られている。金持ちと小金持ちだ。大衆ではない。

しかし、大衆がお客さんでない活動であっても、「高級車」「高級家具」の”良さ”は庶民にも分かる。しかし、現代アートのマーケットシーンでは、どういうわけだか、キャンバスいっぱいに「FooL」と描かれた作品が10億円以上の価格がついたりしている。

まっとうな作品

マツコ・デラックスが、「変な人」だとか「異常」と言われるのは嬉しいとどこかで語っていた。気持ちは分かる。「あなたは真っ当な感性をお持ちですね」と言われて喜ぶ芸術家はいない。

ハッキリ言ってしまえば、現代アートの顧客は「開き直ったスノッブ」である。悪趣味であると指摘されれば喜び、アホと言われれば歓喜し、変人と言われれば小躍りする。

これに対抗するのは難しい。いわゆる”現代アート”に対する批判は、1960年代には出尽くしており、むしろ「常識的観点から発せられる紋切り型の批判が、現代アートのマーケットシーンを維持している」と考えるべきだろう。

(そういえば、医者や弁護士などの地位の高い仕事についている人々は、SMプレイでM豚を選ぶときいたことがある)

正直、かなり気持ち悪い。アーティストも食わねばならないから、そういった悪趣味な金持ちを満足させるために、悪趣味な作品を作らねばならなくなる。

「家庭をもって、親を安心させ、配偶者を幸せにし、子供を食わせる」ために、ピエロを演じなければならない……。

対抗策が思い浮かばない。

往々にして、「まっとうなもの」とは退屈だからである。

例えるなら、プロレスの善玉とヒールに凄まじい賃金格差があるため、善玉が善玉であることをやめ、プロレスが「ヒール対ヒール」になり、観客も目がなれてしまい、最終的に「下着を食う下着泥棒vs自分の金玉を食う金玉モンスター」になってしまったかのようなバカらしさがある。

それに、まっとうで保守的な作品というのは、美術史から消え去ってしまう。彼らが珍妙な作品を高値で買うのは、この作品がもしかすると「美術史」に載るかも知れないという期待も作用している。新しい表現というのは、いつだって批判される。私は切実に、クリストファー・ウールの「Fool」の市場価格が十分の1以下になる未来の到来を望む。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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