民衆のアートワールド と筋書きの先行/お涙

アートの世界には、ジャンルごとにアートワールドが制度・重力として存在する。
端的に言えばデータベースである。アートワールドは、特許局と同類の働きをする。
そして、アートワールドが存在するのはハイアートの世界だけではなく、ポップスやいわゆるローアート然りである。
ただし、どの分野にも”素人”は存在し、アメリカズ・ゴット・タレントで顕著に観察できるが、大したことはない芸がもてはやされたりしている。
「いかに素人を感動させるか」どうか考えたとき、あの類のショーは(プロモーションを公開形式で行なっているだけなのだから、半分は当然だが)抜群の目利きを発している。
あのショーに癌を患っていた少年バイオリニストが登場したが、もしも同じパターンが続いたらどうなるだろう?
このとき発生するのは、「あのときの感動・一回性はなんだったのか」なる疑問である。
特別だと思っていた存在が特別ではなく、ありふれていると気づいたとき、人は傷つく。
特許的重力ではなく、鑑賞者=民衆が判断基準としているのは個別性のあるストーリーである。
アートワールド的な特許性と違うのは、民衆に認知されたものからストーリーが認知された者が擬似的に特許認定されることだ。
流行のリサイクル
ファッションは繰り返すそうだが、民衆のアートワールドを語る際には例として最も適しているだろう。
50年前のフランスで同じような格好をしていたかどうかなど問題ではない。ここ数年で、誰がそれを始めたかである。
現代アートや前衛音楽ならば、50年前のフランスで行われてたことを繰り返す人は評価されない。
ヒップホップにおけるサンプリングなる営みに非常に興味を持っているが、この場合は最初にその楽曲をヒップホップのトラックにしようと企てたものが評価されるので、どちらかというと現代アートに近い。
(ただし、近々のヒット曲をサンプルしても評価はされない。MCハマーは一例)
アーメンブレイクなど数多くのミュージシャンにサンプルされる楽曲もあるが、あれは一種のフォーマットになっている。スケルツォだとかポルカだとか、あるいは四楽章形式などと類似である。
ジャンルのスタンダード
いわゆる戦隊モノが登場したとき、それは確かに新しいものだったろうが、忘れてはいけないのは二千年前も現代の人間も、遺伝子の上では大した違いがないことだ。
講釈・講談は戦隊モノの代わりを果たしていただろうし、アメリカだと西部劇がそれにあたるだろう。
(七人の侍も、戦隊モノといえば前衛モノだ)
だが、古典的な西部劇はネイティブ・アメリカンの描写方法に問題があるし、女性は活躍しないし、何より出てくるテクノロジーが古いため現代人はエキサイトしにくい。特に子どもは。
時代劇のお江戸はなろう小説のナーロッパと比較できる。だが、「同じものだ」とは言えない。お江戸にはステータス制やスキルなどのゲーム的世界観の導入が欠けているからだ。
しかし、「ゲーム的世界観」なる概念がなければナーロッパはお江戸と一緒になる。つまり、新しい概念がなければ新しい創意工夫・様式を認識できない。
様式を認識させるためには、言葉で説明するか、同様式(と、鑑賞者から認識されるもの)のものを複数繰り出さねばならない。
専門家の権威と民衆の評価
ピアノやヴァイオリンなど、クラシック音楽の世界にはコンクールなるものがあるが、吉松隆曰く、コンクールというのは審査する側であり、同時に審査される側でもあるという。
これから売れる・評価される人を発掘するのがコンクールの役割であるのだから、優勝者ではなく予選敗退者などが売れてはコンクールの意義がない……といったニュアンスだろうか。吉松隆の言うところは。
エンタメ小説のファンといわゆる純文学のファン層は違うが、クラシック音楽の場合は同局異演を楽しむ文化が存在するため、住み分けというのが厳しい。
また、民衆の評価軸だって、専門家・批評家の評価軸に影響される。逆もあるかも知れないが、それを言い出せば民衆の評価の高さゆえにあえてその作品・演奏の評価を下げる人もいるだろうから、区別は難しい。
また、小説読みの評価というのは蓄積がある。普段から小説を読まない人の評価などがあふれることがあるが、それは村上春樹や又吉直樹の本など例外だけだ。
三つの評価軸・アートワールド的なものを提唱する。
- 専門家・批評家・演奏家
- コアなファン
- 初見・ジャンルファンでないものの評価
例の癌を克服したヴァイオリン少年はそもそも、演奏の良し悪しで判断されたわけではないのだ。あるのは癌に罹ったという過去、いじめられた過去、そしてヴァイオリンらしく聞こえる演奏である。
そんなに上手でないことなど、観客も分かっている。ここで発生しているのは、コンペティションとは逆の重力で、プロレス的な力だ。
強いもの・優れたものが勝つのではなく、勝った方が面白い方が勝つ。真剣勝負にもドラマはあるが、勝負の末のドラマではなく、筋書きが最初にある。
プロレスの場合は筋を書く人が不可視である。だが、アメリカズゴットタレントやアメリカンアイドルの場合は、審査員に扮する人がまるで才能を発掘するテイで居座っている。実際は、プロレスのドラマを組み立てている人たちなのに。
(非スポーツ的判断基準)

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