「理想社会」に巻き込まないでください

世俗主義は権威化する。「普通の人々のおだやかな同意」以外の審級を認めない立場に立つ人々が、自己反省能力を失ってしまうと、道徳や”進歩”、あるいは”科学的事実”ですら、権威を失ってしまう。

“村八分”という現象があるが、あれを国家スケールに置換すると、「政府=人民によるマイノリティの迫害」になる。排外主義や差別は、人間の本生から生まれている。

歴史を顧みれば分かることだが、「民」が善良であったことなどなかった。…”善良な民”はいたかも知れないが、好戦的な隣人によって、皆滅ぼされるか、ポリシーの変更を余儀なくされている。……

私は、”大衆を顧みなくなった知識人”を攻撃したくないが、それも、自分を守りたいだけなのかも知れないと思う。

奥義を発見し、その密教的な秘儀に精通すること。…(省略)秘技的な「読み」を身に付けることが、なにかリアルな政治的な問題を解決してくれる

渡辺幹雄「左翼を健全化する」

PDFはこちらから

痛いところを突かれた気がする。…ものごとの「実際的側面」を語るのではなく、それを成立させる「上位審級」すら分かれば、政治や文化の「秘奥」を会得したことになり、「大衆」を超越できる。

悪習≒因習≒旧弊に固執する大衆は、未来に誕生する「理想社会」の土壌に過ぎない。だから、密教的な進歩派は、「幸福な理想社会」の実現を未来に永久に先送りし、「いま・ここ」の苦しみ、「わたし」の苦しみを、止揚のためのアンチテーゼに当てはめてしまう。

搾取と原罪

アメリカの白人が、「私にはネイティブ・アメリカンの血が流れている」と語るとき、彼らが試みているのは「原罪性の心理的軽減」である。実際に血が流れているかどうかは関係がない。日本の歴史修正主義者たちが、「南京虐殺はなかった」「太平洋戦争は連合国に追い込まれたため、仕方なかった」というとき、彼らは”民族の原罪”を抹消しようとしている。同じように繰り返すが、実際にあったかどうかは関係がない。

進歩派の巨大プロジェクトは、…未来に先送りされたプロジェクトは、「原罪と搾取のない理想社会」の実現にあると言える。彼らが目指しているのは、未だかつて実現したことのない社会と、”人間”の実現だ。…罪を犯そうと思っても、良心によって誰も犯せない社会。

「左翼を健全化する」の(2)において、頻出するワード「ロマン主義的なドライブ」は、そういった”進歩的倫理”を駆り立てる欲望を、剔抉したものだ。

…哲学を「基礎学」として見なすこと、価値観・イデオロギー・習慣の”成立の条件”を探る学問として見なすことを、ローティは「超越論的」と言った。

超越論的哲学者達は、政治=歴史を目的論的な、「当然の帰結」に向かうものとして見るが、それはキリスト教の「終末論」と何が違うのか?メシア思想と何が違うところはあるのだろうか…。

「歴史は、思想・宗教が決定的役割を果たしているわけでもなく、経済が決定的役割を果たしているわけでもなく、無秩序でいかがわしいものである」

この見解が、寂しいドライな見方であるにしろ、一度は内省により試みるべき知見なのは間違いない。

(ちなみに、上述の「歴史は…」は、引用ではない)

厳格さと独創性

ローティによれば、厳格さ(rigor)と独創性(ordinality)は両立しない。これは、芸術史・美術史を少し勉強したことのある人ならば、直感的にわかることだ。「新しい表現」は、「既存の形式」を書き換えるため、常に毀誉褒貶にさらされる。そしていつしか「新しさ」は、「スタイル」となり、「保守的表現」になる。

あくまでも「形式主義」の立場だが、数学の「証明」とは、公理体系Aを承認した”立場”から認証されるものだ。

論理体系が違えば、(通俗的なワードで申し訳ないが)世界観が違えば、反論と同意は成立しない。正確には、審級・同意が存在できない

…非常に鮮やかな分析(アナライズ)である。魅力がある。

しかし、ここで頭をもたげるのは、こういった「形式主義」(経験主義?)に反論する人たちが、少なくないという実状だ。彼らを「誤謬を信じている」と断することが、今の私にはできない。…可謬主義を盲信してしまえば、それは可謬主義ではない。「可謬主義は間違いかもしれない」と保留する態度こそが、真の可謬主義者のありかたではないだろうか?

万能人あるいは「超人」

「自己責任」に関する議論が、ツイッターの紙面(?)上で終わりなく繰り返されている。多くは誹謗中傷と被害妄想なので、読んでると悲しくなる。

…ローティは、ニーチェの「超人」思想を批判している。「左翼を健全化する」では語られていないが、「超人」を「万能人」と言い換えても同じことだろう。

「超人」を目指してもいいが、個々人の”妥協”でしかない「社会」に、「理想」を実現させようとするのは辞めてくれというわけだ。絵に描いたような穏健派の言説だなと思う。

進歩派は…進歩派だと言外に「左翼」を暗示してしまうので、「過激派は」と言い換えても良いが、穏健派に留まってくれないものか?パッチワーク的な「前進」で、満足はしてくれないものか。

私のこの主張を、「世俗主義過激派」だと非難して頂いて構わないが、少なくとも私は、「自分は過激派ではない」という妄想は抱いていない。

参照:「左翼を健全化する」1

   「左翼を健全化する」2

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です