芸術分野における天才論(才能があるとかないとか別にええやんけ?)

橋本治がどこかで(おそらくは「青春つーのはなに?)で、「天才というのは、何度も死ねる人だと思う」と、前後の文脈などなしに、アフォリズム的に言い放っていたことを覚えている。

手法・表現方法・発見などは、模倣されうる。そして、芸術分野において「先駆者」「発見者」「最初にそれをやった人」は評価される。

「新しい手法」に対して(ほんとうには然程新しいものでなかったとしても、「これは新しい」と集団から認められる手法に対して)、「おれならこうする」「おれはもっと上手くできる」「成功事例を真似て、我々も一山当てよう」と、有象無象の芸術家がそのジャンルに参戦・挑戦する。

先行作品Aの価値は落ち続ける?

先駆者が新手法で世に出した作品を、「先行作品A」とする。

「先行作品A」の価値は、模倣/「改良」/付け足し/、そして類似品によって、「希少性らしきもの」と、神秘性、「謎のようなもの」を失う。

意識の流れ」「キュビスム」「セカイ系」は、2019年現在目新しくない。しかし、「この作品は『先行作品Aの影響がある』と批評家がいったり、消費者が同じようなことを思ったり、後発作品Bの作者が「私は『先行作品A』を大いに参考した」と語るなどして、「先行作品A」が世に与える価値は継続する。

(忘れられた「先行作品A」、正当な評価を与えられるはずだった新手法はきっと山程あるのだろう。忘れられる先行作品と、忘れられない先行作品の違いもいつか検証したい)

元ネタと模造品とで、なぜ模造品の価値が下がってしまうのか?たとえば、モナリザと全く同じ絵画を現代の技術で再現したとして、なぜ模造品の「資産価値」は下がるのか…(芸術品としての価値も、やんわり下がるような気はする。「これはあのダビンチが書いたものだ」と思えるかどうかは、心理的な影響は大きいだろう。…何百年前の絵画というのは、なんども修復されており、オリジナルから何度も他人の手が加えられている。それは知っているし、気にかかる。いつか別の機会に考えねばならないだろう)

なんども新しい手法を試みること

革新的なもの、新しいものは、偶発的に生まれうる。なんとなく作品を作ったら、自分の考えていたこと以上に評価されること、それはありうる。

(作品全てをコントールすることは、そもそも原理的には不可能ではある)

また、「才能」がなくとも、同じことを考え続ければ、なにか一つ良いものはできる。そんなぼんやりした確信がある。

フォーマットを縦横無尽に移動できる人、手法を変えられる人、活動の場を広げられる人、セルフパロディに終始しない人、過去の自分の実績とイメージをかなぐり捨てられる人、その上で「成功」できる人。そういった人は稀だ。

(私は、「成功」があるか否かを、市場だけで判断させたくはない)

手塚治虫、谷川俊太郎、会田誠、エドガー・アラン・ポー。

そういった人は、本当に凄いと思う。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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