教師の仕事は、綺麗事を内面化させること
偽善者、より正確には綺麗事・美辞麗句を子供に薫陶・浸潤・教化すること。倫理と遵法精神を内面化させることが教師の役割である。暴力と恐怖はマストである。六歳だとか九歳の児童に理屈を展開させてもわかってはくれないのだ。
部屋でじっとできる、毎日決まった時間に起きられる、そのような人間をつくりあげることも教育機関と教師に課せられたプログラムである。
親ではない他人である教育者
タレントもカウンセラーも、仕事場を離れてしまえば彼らの仮面は取り外される。人間、職業上の要請でなりたつパーソナリティは維持が大変しんどい。たいていの人はパンクする。
親の思ったとおりに子供が育たない一因がそこにある。親当人らが毎日ダラダラしているのに子供に勉強しろと言ってすんなり納得してくれるはずもない。
先生というのは、生徒の前では先生である(べきである、強く)。タレントがテレビの収録中にタレントであらねばならぬことよりは容易である。なぜなら教師の仕事は半分ルーティン化されているからだ。プライベートを切り売りする必要もない。話を盛る必要もない。
美辞麗句・綺麗事の体現者
子供の頃は、学校教師の胡散臭さ、綺麗事しか言わない姿勢が嫌いだった。「道徳」時間は、思想的異常者をあぶり出すためのイベントにしか思えなかった。
しかし、振り返ってみれば教師も我々と同じ人間であり、自分の年齢も世間的に「大人」と見なされるころになってわかるが、彼らも我々「一般人」と同じように、子供に苛ついたり仕事にいきたくなかったり、ゲスな欲望を抱えている人たちである。
教師がそういった「人間サイド」を見せられないのは、やはり児童に言葉や理論を尽くして語ってもわかってくれない(という通念があり、かなりの程度これは真実であろうと私も思う)からであり、道徳を体現、言行一致してなければ子どもは反発してしまうからである。
「私は退廃的な人間であるが、君らは清廉潔白な優しい人にならなければならない」
そんなメッセージを実行する児童はいない。
(割と聡い子どもであった私も、教師は教師の仮面を被っていることに気づけなかった。それもそうで、教師陣も全て仮初の人格で塗り固めていたわけではなかったからである。
合コンだとか婚活の場所での自己紹介と似ている。嘘と本当が入り混じっている)
正直さと優しさと礼儀
「嘘をついてはならない」と「人を傷つけるようなことを言ってはいけない」は矛盾する。ダブルバインドである。
上記の二つを成立させようとすると、「人を傷つけるような思考をもたない」例えば、「容姿や見てくれに好悪の感情ももってはならない」なる結論が見出せる。
道徳教育・人権教育の教えは、まさしくその通りである。差別してはならない。博愛主義者にならなければならない。
教師、この三つのメッセージを本気で信じれる人間、あるいは、そう振る舞わねばならないと分かっている人間がなるべきである。

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