テクスト批評のルールと権威

前回から話が続くが、テクストは不変である。つまり、テクストには我々が生きているこの世界のように、本来は解釈ができない類のものだ。

例えば、人の人数を数えたとする。人数=ナンバーはは、その人たちの集まりを指示はできても、彼らを言い尽くすことはできない。

現実が過剰であるように、テクストも過剰である。批評・”読み”は理論上、無数に成り立つ。

これは、テクストの読み方に正解がないことを意味し、同時にテクストの命題化が不可能であることも意味する。

テクストは、ただそこにあるだけである。仮に、テクストが命題化しうるとしたら、TrueとFalseに分けられるでしたら、そのテクスト外にもう一つの比較対象となるテクストが必要である。テクストでなければ、ルールと言い換えても良い。

具象画と抽象画の評価方法

キムジョンギという、並外れた才能を持つイラストレーターがいる。参照をほぼ使わず、記憶力で絵を描き、下書きもせず、素晴らしい絵を描く。

素晴らしいと言ったが、具体的には

  • パースが正確
  • 人体構造が正確
  • 機械の部品もそれらしく描ける

この3つが揃っている。二次的に評価点としている与えられる、作品外のコンテクストとして

  • 下書きしない
  • 参照を見ながら書かない
  • 描くのが早い

これらの点も挙げられる。

キムジョンギのことを「エイリアンだ」と評するコメントをいくつかYoutubeで見た。

もし、見たものを正確に記憶できて、それを精密な写真のように描ける種族が宇宙にいたとして、キムジョンギはその種族内では極普通の能力の持ち主になるのかもしれない。

抽象画を評価するときのように、具象画は評価できない。具象画に対して「パースが狂っている」と指摘したって、言っている方がおかしいと見なせる。

逆も然りである。

そして、イラストレーターに独創性の無さを指摘しても仕方ないのだ。

イラストレーションの世界は、現代アート界隈と違い保守的な評価軸が機能している。

現代アートのように、先例のないものを探し続ける・更新し続けようとするスピリットがない。

大道芸的な

大道芸的な、フィジカルなパフォーマンス、びっくり人間ショー的な要素は、明らかにアートマーケットとアート評価に強く影響している。

山下清の記憶力の逸話も、彼を押し上げている。

芸術的価値とは

短距離走の走者は、一番早くにゴールに到着したものである。走るフォームなどは一顧だにされず、評価の対象にならない。

芸樹における勝利とは何なのか、そもそもそんなものが設定できるのか考え出すと、どんどんこんがらがってくる。

確かなのは、スポーツのような”競技規則”は、アート界にないことである。ぼんやりとはあるかも知れないが、たとえば「点を多く取った方が勝ち」「ストライクゾーンの範囲」「攻守交代」「危険球退場」など、例外視できるルールの権威がない。

 アートにルールがあるとすれば、それは授業に於いてだろう。美術に詳しくはないが、デッサンならばオブジェクト写生の正確さ、陰影の正確さ、サイズ感、パースペクティブなど。

ジャンルが洗練されるためには、一つの基準、あるいは基準となるような作品が少なくとも一つは必要である。

今の現代アートの基準=ルール=作品は、デュシャンの泉であることは間違いない。

(基準が複数あるのは単一なのかは、今は力不足ゆえ答えられない)

ド素人の感じる”凄さ”

偉そうに言うが、ド素人が褒める絵画は99%の確率で「書き込みの多い具象画」である。ラッセンしかり、ヒロ・ヤマガタしかり。

ド素人の評価に、私はほとんど信を置いていない。理由は明白で、まず彼らは「希少性」が分からない。巨大な具象画などありふれているものなのに、それをあたかも大傑作かのように感じるから。

それに、ド素人の評価はあまりにパーソナル過ぎる。自分の恋愛を思い出したとか、ただ「面白かった」だけだとか。

その観点から言うと、小説ファンはほとんど私の言った「ド素人」ファンのいないジャンルかも知れない。世間ですごく話題にならない限り、普段小説を買わない層は本を買わない。

個人的感性判断の是非

美術の教科書に載っている作品、あるいはマーケット上で高評価を得た作品に、感動しないことはあり得る。

歴史的価値とは、骨董品の価値であり、それはアートの精神に反発と順応の相反する反応を起こすファクターとして働く。

骨董品の価値を、希少性のみに求める考え方もクレイジーではないと思うが、そんな単純に割り切れはしない確信がある。

Youtubeで「100年以上前に撮影された、街角インタビュー」を見たことがある。そこにいるのは、なんてことない庶民ではあるが、今生きている庶民の意見よりも、面白そうだという予感を禁じ得ない。

…遠く昔に生きている人に、自分に共通する要素を見つけた時に感じる、不思議な感覚の正体が分からない。

松尾芭蕉が、三国志だったか孔子だったか忘れたが、古代中国の人を「昔の人」だとか何だとか呼んでいたのを、国語の教科書で見つけたとき、それはそうだろうとも思いつつ、奇妙な感覚も同時にあった。

大昔の人間であっても、現代とはかけ離れた言葉遣いをしていても、彼らは未開人ではない。

比類なく特別な時代を生きている所感は、錯覚なのだろうか?

桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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