作品の登場人物と作者が同一視されることの不可避さ

 又吉直樹の小説のAmazonレビューなどを見るとわかるが、語り手及び登場人物の言動を「作者の意見」だと捉える人は多い。多すぎる。

 ほんとうに誰かが意見を表明したいのなら、小説なんてまどろっこしい媒体じゃなくて本人が自らの口から言う。又吉のような影響力の高い人物なら尚更である。

 過去に、私はフィクションを「正直な嘘」「嘘であると宣言した上で発せられるもの」と定義できないものかの提唱した。

 その時点では気がつけなかったのだが、人がいくら「これはフィクションです」と言っても、読む人は登場人物のことを作者の分身・代理だと受け取ってしまう社会的な現象が存在する。

 私がいくらフィクションを定義しようと、フィクションをフィクションではないものとして読んでしまう人が存在する。

ノンフィクションをフィクションとして読む人はいるか

では逆に、体験談・ノンフィクションとして提出されたものをフィクションとして読む人はいるのか。

書籍だとあまり例が浮かばないが、テレビタレントがテレビで話す話をそのまま事実・実体験だと信じる素朴な人は少ないだろう。

「話を装飾する・盛る」といった営みは芸能人特有のものではないが、彼らの生計はギャラ=番組出演によって成り立っている。

つまらない話をしても盛り上がらないしオンエアもされないだろうから、話を加工して披露する。論理的な行為である。

なぜ情報の受取手は、あるいは読者は素直に形式が主張する「これは作者の分身ではありません」なるメッセージを受け取らないのか。

フィクション・お喋り・メッセージの目的

性差別的なことを言わしてもらうが、本の感想に「共感できなかった」「感情移入できなかった」と残す人の大半は女性だと思っている。

普段から共感を求めるコミュニケーションを求めているから、目の前にいる人もきっとそうなんだと思ってしまう。

  • 前提「この小説の主人公の語りは、共感を求めている」
  • 結果「私は共感できなかった」

恋愛ゲームの主人公などは、明らかに製作側が主人公を作者の分身として捉えられるよう工夫を凝らしていると見なせるが、大半の小説は共感を求めて作られているわけではない。

また、語り=メッセージが、それ自体の目的が語り=メッセージを楽しんでくれればそれで良いと言ったような言説も、日常にはほとんど存在しない。

我々が通常何かメッセージを発するとき、そこには目的がある。あるいは、目的を見出される。どんな言説も、「なぜこのようなメッセージを発したのか」なる問いからは逃れられない。

よって、どんな作品も「作者が溜飲を下げるため」「作者が願望・性癖を満たすため」「作者が名誉を得たいがため・称賛を得たいがため」なる目的の射出から逃れられない。

また、我々の日常のコミュニケーションは、メッセージの内容ではなくメッセージが交わされる場、あるいはメッセージの内奥に潜むメッセージを読み取る・察することを強要する。

誰かが「お茶」と言ったなら、それは単に名詞を口に出したわけではなく、「お茶をとってほしい」であり、なおなつ「喉が乾いてる」である。

登場人物(特に語り手)が、作者と同一視されるのもむべなるかな。大半の人間は、自分の話がしたいのだ。「きっと、この本の作者は自分をこの人物に投影している」と思われたって不思議ではない。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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