タマルの摂理と聖書の”神聖”性

聖書にタマルという女性が創世記に登場するが、彼女の行動の表面だけを見れば、非常にいかがわしい行いをしている。
タマルの夫であったエルがなんらかの理由で神の怒りをかき、亡くなってしまうのだが、本来は実行されるべきだったレビラト婚が、ユダの息子たちの勝手によって行われず、ユダの息子である三男のシェラも、シェラが亡くなってしまうことを恐れ、民族の掟であるレビラト婚をエルの父ユダは実行しなかった。
タマルは仕方なく、遊女(原典では、神殿娼婦というらしい)を格好をしてユダに近づき、子を身ごもった。
このタマルの血筋がイエスへと繋がっていく。
摂理と日本人の世界観
統一教会は、このタマルの倫理にもとるアクションを、「神の摂理」だと主張する。タマルのエピソードは聖書の聖典に残されており、その時点でなにかの聖性が備わっていると聖書の編纂者が判断したか、あるいは神が啓示を下されている。
タマルはカナンの異民族である。タマルの行動ゆえに、イエスキリストはユダヤの民だけでなく異民族の罪を購うことかできたと解釈する神学者もいる。
非キリスト教徒の日本人には理解以前に前提の把握が難しいだろう。私も自信を持って自分のことを信仰者とは言えないが、少し説明する。
まず、聖書は神聖な書物である。神のことばである。英語圏で聖書を指し示す場合、定冠詞theをつけてthe Bibleと言い習わすが、Bibleとは聖典を意味し、「その聖典」と固有名詞を用いないのは、慣習以上の含意があるだろう。
すこし不敬だが、英語圏における聖書の呼びならわしは、the Historyの二単語をもってユダヤ人の歴史を指示対象とするかのような運用と同質である。
(注:the Historyでユダヤ人の歴史を意味する用法はない)
なぜthe Bibleで聖書を指し示すのか?それは、聖書が人類の歴史だからである。有象無象の”民族の歴史”なる集合の外にある歴史であり、書物であるのが聖書なのだ。
(信仰者にとっての前提)
その上で、聖書の”摂理”=神のみ旨・御心による、世界への働きかけを前提にすれば、視座に加えれば、タマルの話も訳の分からないものから、訳の分かるものに少し近づくだろう。
かなりラフな論理立てだが、サマリー・要約として
- 聖書は神聖である
- 神は摂理を行われる=歴史に介入される
- 摂理は聖書に記されている
これを立てることが出来る。
つまり、「タマルの行動は神のみ心が働いているのか?」という疑問から出発するのではなく、「タマルの行動は神のみ心が働いている」ことを前提に推論を積み重ねるのだ。
よほどプログレッシブな自由主義神学者でもない限り、聖書の書かれていることは真実であり、神聖であり、神の摂理が働いていることを前提に、神学は発生している。
聖書の神聖さは何が保証するか
ここで「では誰が、あるいは何が聖書の神聖さを担保するんだ?」と疑問を覚える方も当然いるだろう。
「グループAは聖書の神聖さを信じてるものがいて、グループBは聖書の神聖さを信じていない人がいる」と前提・パラダイム・流派のようなものが違うだけと認識してもそれは間違いではないが、クリスチャンは不信仰者に対してそのような態度をとらない。
創世記の世界創造の描写をビッグバンと結びつけたり、聖書の写本の正確さを主張したり、聖書内で起こった出来事が実際に考古学的に証明できると主張したり、聖書の記述はあくまでも比喩であり、文字通りの解釈をしなくてもよいと言ったり…etc。
ギリシャ神話だとか古事記の創世神話に対して、そのような解釈を加えて聖性を保とうとする人が、この世に一人でもいるだろうか?私は知らない。
その意味では、聖書が特別な書物であることは非信仰者も認めるだろう。神聖であるか、摂理=神のみ旨・御心が働いているかはともかくとして。

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