コメディにおいて「やりに行く」こと

ゴッドタンで、手島優が劇団ひとりから「それはやりにいってる」と、フリップに書かれた回答に対して批判があった。

「やりにいってる」というワードは、かつてのヘキサゴンメンバーに対しても時折用いられる。ようは

「非意図を装って、意図的に間違い・失態を狙いにいったのではないか」なる指摘である。

太宰治の小説「人間失格」で印象的な場面、主人公の失態が「ワザ・ワザ」と指摘されるところも、類型的な場面だろう。

しかし、わざと失態を誘って何か不都合があるのだろうか?

天然キャラと、偽天然キャラを人は区別したがるが、同じだと不都合があるのだろうか。

庇護すべきもの・父性と母性

人には庇護欲がある。成人よりは子ども・赤子に対して守るべきものと認識する。

いわゆる天然というのは、象徴的には子どもである。だから、庇護すべきものと庇護すべきでないものを区別するために、偽天然は嫌われる。

(ここまで書いて、男性社会において女性のぶりっ子がそれほど嫌われないのは不思議だと思った)

司馬遼太郎の「項羽と劉邦」ではないが、完璧な上司の家臣は、意見を言わなくなる。自主性がなくなっていく。

やりにいったらダメなのか

劇団ひとりの手島優に対する「やりにいってる」という指摘は、かなり理不尽に聞こえる。

やりにいってないタレントなどいるのか? 皆ウケが欲しいのではないのか? ウケを狙ったらダメなのか?

劇団ひとりが言葉足らずだったのは明らかだが、バラエティ番組で細かいお笑い指導をすべきとも思わない。

劇団ひとりが言いたかったのは

「元々天然なあなたが、やりにいってはいけない。やりにいって、あなたは意図的にボケられる人ではない」

変な人というのは存在する。一般的な規範から見て、そこから外れる人たち。彼らの何気ない発言は、笑いを産んだりする。

バラエティ番組というのは特殊な空間で、「これは嘘です」と宣言してから嘘をつくのは許されていない。皆、一応は「実際に体験したこと」「実際に思ったこと」を話すというルールで進められている。

それとはまた別の領域で、ポンコツ及び天然なる概念がある。主には、コメディ・バラエティ番組のルールを活用できない人たちを指す言葉だ。

人がリンゴ・スター褒めるとき

「リンゴの曲の良いところは、かっこよく写ろうとか、そんなことを考えていないからだ」

リンゴスターの曲というのは、残りのビートルズメンバーと比べて、素朴である。悪く言えば、俗っぽいカントリー調の曲をリンゴは作品として発表する。

人間が関わる営為は、「なぜそれを発したのか」という動機のファクターから逃れられない。

不祥事があって、その後の謝罪会見で言い訳をしない男らしい振る舞いだって、「言い訳をしない印象付けを狙っている」と捉えられうる。

科学的に確定はできなくとも、人を殴るときに「傷つけるため」「むかついたからカッとなって」「ギャングを抜けさせるため」など、動機はいくらでも用意できる。

「やりに行く」フォーマット

「やりに行く」指摘というのは、エピソードトーク的なフォーマットで起こるが、漫才やコントでも起こる。

大喜利・コント・漫才においては、人は「やりに行く」=感情を偽ることが慣習的に許可されている。

(端的に言えば、嘘をついても良い。ただし、漫才においては経歴を偽ってはならない。結婚していないのに、嫁の話はできない)

たが、違うベクトルの「やりに行く」はある。例えば、漫才中にツッコミながら笑う行為など。いかにも自然な笑いを装い、観客の誘い笑いを狙う行為など。

無作為を装う仕草は、やり過ぎとみなされうる。

(コント中の台詞で、毎回キャラを壊して笑う人がいるが、あれもラフプレイだろう)

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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