映像は本質的にノンフィクションだろうか

コーランとは別に、ハディースなるムハンマドの言行録が存在する。紙に記したのではなく、ムハンマドが直接に信者に語ったとされる内容を紙に記したものである。ユダヤ教における口伝律法に相当するだろう。
ハディースもイスラムの大事な経典だが、真正性なるパラメータに於いてコーランより優先度は下がる。
ハディースにおいて問題になってくるのが、あくまでも「ムハンマドはこう語った」なる第三者の証言によって構成されているため、真正性が問われることだ。
私が思ったのが、これは「言葉」で記された故に真正性(真偽)が問われるようになっているのではないかということだ。
過去をそっくりそのまま再現できるのなら
殺人事件が発生し、容疑者がひとりあぶり出されたとする。警察は証拠を集めて、容疑者が犯人なのかどうか検証しようとするだろう。
しかし、仮に警察機構がその時点での過去を、外部の干渉なしに100%再現できる装置、あるいは過去を目撃できる装置(タイムマシーンなど)を所持していたのなら、証拠集めに奔走する必要はなくなる。
(そのタイムマシーンは、本当に過去を正確に映し出しているのかという別の問題は発生する)
SFじみた話をしたが、「防犯カメラにうつった映像」は「過去が映像により再現された世界を切り取ったもの」である。防犯カメラにその容疑者が被害者をメッタ刺しにする映像があった。ならば証拠集めはほどほどにすれば良い。
「映像」も、もちろん完全なる証拠というわけではない。推理小説のご法度だが、犯人は生き別れの双子によるものである可能性や、とてもよく似た人物による犯行である可能性もある。
だが、すくなくともカメラの固定カメラの映像には「人間の主観」が介入しない。「証言」が成されるためには、まず一人の人間が出来事を再解釈して他社に説明する必要がある。人間にカメラ録画機能が付いていれば別だが(DNAのように情報化されていれば)、そう人体は出来ていない。
映像とは、過去→未来へ流れる世界を切り取ったものである。
虚構記号と映像・文字
「どんな虚構(フィクション)作品であれ、それがフィクションであることを示す記号がある」=虚構記号が存在する。なる命題がある。「今は昔」「いづれの御時にか」など、だがそれらの記号は非フィクション作品にも転用可能であるので、虚構記号、その記号を使うだけでそれ以下のテクストがフィクションとなってしまうような強力なタグは存在しない。
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(もちろん、いかにもフィクションらしい特徴というものはある)
ここで、映像と文字(あるいは言葉)の性質の違いが見て取れるのだが、虚構ではなく単にそれが嘘であるというとき、まず「事実」があり、それにそぐわないという前提を経なければ「嘘」なる概念は出てこない。
そして、「嘘」という概念は、どこまでも人間的なものだ。この世界に嘘はない。ただ世界は一つあるだけである。
本(あるいは文字・言葉)の世界は、外部と隔絶している。映像も、外部(世界)と隔絶しているが、完全に隔絶することができない。
例外はアニメーション・コンピューターグラフィックによるものだろう。コンピュータグラフィック(以下CG)の世界・映像は、我々のこの世界から自立している。物理法則が作用しない。平気で二段ジャンプする。
実写映像は、物理法則から逃れられないため、文字情報のような根拠の根無し草状態ではない。それは制約でもあるが、同時に人間の映像情報に対する信頼の厚さにもつながっている。
(世界の法則をいくらでも曲げられる世界において、映像情報は証拠にならないだろう)
文章では、この世界に即していないことをいくらでも捏造できるが、映像を捏造することはできない。もちろん、証拠映像を捏造することはできるが、あくまでもそれは「嘘の文章」なる装置により、事実(世界)と異なる誘導を導かねばならない。
(「嘘」は、いつだって言葉の領域に属する)
小説・フィクションという制度
いわゆる小説=フィクションがフィクションであるというのは、史実・歴史・ジャーナル記事でないと受け止められてるのは、読者側の受け取り方である。もちろん、作者は「この作品はフィクションですよ」と、記号的に強調することもできる。
フィクションとノンフィクションの関係は、冗談と本気の関係に似ている。「嘘から出た真」なる慣用句があるが、フィクションが予言してしまうこともあるのだ。
実現されしまった冗談=フィクションは我々を混乱させる。舞台上の役者が「お前らを銃で打つ」と宣言したとしよう。本当に銃で撃ったとき、それは演劇からなにか別のものに変化するのだろうか。
デヴィッド・ルイスは、フィクションにおける語りを「振り」(pretense)と規定した。(17ページ)。何かを知っているかのように語ることが、フィクションのエレメンツだという。
少し思ったのが、語り手が何も知らないフィクションは存在しうるのだろうか? また、芥川龍之介の「藪の中」で示されるが、複数の語り手の主張内容が異なっていたとき、優先される、より権威の高い発言はどれなのか。

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