目覚めよ!真理はどっかにある

高貴な嘘 あるいは「Lying for Jesus」。ある目的のために、嘘をつくこと。情報を隠すこと。不正直にふるまうこと。

特定のグループ・集合をエンパワーメントしようと思ったら、データなどを都合よく解釈する・無視する・恣意的に扱うより他ないのだろうか?

ジジェクが、第二次世界大戦前のユダヤ人の活躍・優秀性を示す歴史的情報が、反ユダヤ主義に利用されうるとどこかで語っていたが、例えば、「フランス革命の処刑と、ホロコーストの比較」「関東大震災における、朝鮮人の略奪行為の有無」なども、素朴に扱えないトピックである。

ポリティカルコレクトネスというと、悪評ばかり仄聞するが、何も余命一ヶ月と診断された末期ガン患者に、馬鹿正直にもうすぐあなたは死ぬと言わないでもいいのだ。

ポリティカルコレクトネスの有効性

先ほどあげた末期ガン患者の例は、政治らしいものとは少し隔たりがあるが、友達のパートナーの写真を見せられた際「ブサイクですね」とコメントするのは無作法だというのと同根である。

ビーガン生活の素晴らしさ、江戸時代の庶民が菜食生活を送っていたことを言及する言説が、「お前ら肉食うな」というメタ・メッセージとして受け止められることも、狂気的ではない。そのスタイルで会話を進める人は、一定数以上いる。

(親の「勉強しないのか?」は、「勉強しろ」である)

「メディアの報道規制・表現規制は、対立陣営をラディカルにする」と一部の人間は主張している。例えば「害のない譲歩」というテクニックがあるが、人は一度同意してしまうと、その同意した自分の立場・立脚点と一貫した行動をとりたくなるそうだ。

(中国共産党は、朝鮮戦争時に捕虜に対してまず「共産主義の良いところ」を認めさせ、その後で「共産主義礼賛」の文章を書かせたとか)

「同性愛者を虐めるのは辞めよう」から、「同性同士であっても、結婚を認めよう」。「セックスとジェンダーは違う」「性自認を尊重しよう」から、「性適合手術をしてなくとも、生まれつきの性以外を認めよう」「性自認がない立場も認めよう」。

「寛容」に限界はあるのか?未来の価値観は、どうなっているのだろうか。

ラディカリズムの起源

聖書だとかコーランには、同性愛に反対する記述がある。これを根拠に、「聖典が同性愛嫌悪を作り出している」とすることは可能だ。事実、アブラハムの宗教が根付いていない日本では、同性愛嫌悪はあまり見られない。それに、婚前交渉と同性愛では、明らかに特にキリスト教徒は婚前交渉により寛容だ。ここに、二重規範とバイアスを見出すべきだと思う。ポルノ中毒者が、同性愛者を激烈に非難するのは狂っている。

価値観・価値において、もの・ことの優先順位や、聖/俗、高貴/野卑の二項対立が作られる。これらをラディカルに全て並列できる人は、おそらく人類史上存在しない。いるとすれば、その者は「純粋鬱病」のような状態に違いない。

アメリカのイスラム教徒と福音派のキリスト教徒とでは、前者の方がより同性愛嫌悪が強いという調査結果がある、ただあくまでも「社会に受け入れられるべき」であるかどうかのアンケートなので、自分の息子・娘が同性愛者だったら…の仮定をしたものではない。

欧米の反同性愛的態度が、「内面化されたキリスト教的価値観」から来ているとすれば、これはキリスト教の求心力の低下により、反同性の傾向は下がる。そして、宗教的権威の低下は、科学技術の発展からの影響が大きい。

(無神論/有神論ではなく、「権威」の程度の話)

科学技術の発展と、支配体制の変化。これら2つは社会の潮流・価値観を変えるもっとも大きなものだろう。

個人の力の辺界・限界

政治家・独裁者は、あくまでも統治機構の力によって影響力を及ぼすので、「個人の力で世界を変えた」とは言いたくない。統治システムを活用しているからである。

また、自然科学分野における「発見」も、いずれ誰かが見つけると思う。たとえば「アインシュタインの生まれなかった第二次世界大戦と、その後の歴史」は想像可能である。しかし、「車輪の存在しない文明」は想像するのが難しい。

例えば、イエス・キリストが存在しなければ、世界はどうなっていたのだろうかと思うことがある。ヨーロッパは、日本的な素朴な精霊信仰のまま産業革命を迎え、東洋のように「恥の文化」であったろうか?

ジョンレノンは、無神論者に崇高さを与えただろうか?

男性は、「女性に対する性被害」を軽視しがちな傾向があり、逆もまた然り。そして、自分の家族は他人より優先度が高いし、自民族と多民族、自人種、他人種、人間と動物では階層が各々ある。

(動物と人間の命を同等のものとする・価値を同じくする「過激派」の気持ちは、分からないでもない)

もしかすると、自分はあまりにも運命論・因果関係を見出しすぎているのかも知れない。「Aという行動には、Bという背景・出来事があり、そのBにはCが…」と、無限に遡及していってしまっている。

全く同じものではないだろうが、芸術や哲学における「発見」にしろ、通時的に見れば誰かが「見つける」。とすると、今生きている我々に出来るのは、「タイミングを早める」ことでしかなくなる。あまり聞きたくないし、言いたくない言説だが。

ただ、共時的観点からすれば、我々の認知能力と記憶のキャパシティには限界があるので、芸術・人文科学・社会科学領域における「未発見ゾーン」は、常に更新され続ける。もしかすると自然科学領域にも、「忘れられた有用なテクノロジー」の問題が、いつか出てくるのかも知れない。あるいは、すでに顕在化している?

(自然科学分野における「車輪の再発明」を回避するテクノロジーを、いつかGoogleが本格的に人工知能を用いて着手する未来が見える)

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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