作品の無誤性とテキスト解釈

町田康の「告白」は、私の好きな小説である。その小説に対して、大森望が「文学賞メッタ斬り!」において、「作者は、作品を終わらせたくなくて、ずっと続けている」だとか、そんなことを書いていた。

 批評家ではないと出てこない意見というか、自分は「告白」を読んでいるとき、そんな感想は微塵も抱かなかった。

「告白」は、もう少し短くても十分成立はするだろうし、この小説を長すぎると思う人の気持ちも想像できる。

私はただ、町田は歴史上に残る傑作を書きたくて、あの筆致に至ったのだろうとしか思わなかった。

SEOと作者

インターネットで、指示代名詞を使わず、長大な単語を繰り返している文に出会う。

常識的に想定できる意図は、SEO対策である。検索エンジンに見つけてもらいやすくするために、あのように書いている。

ここで想定されることによって出現する主体は、「SEO対策をする作者」だ。

美学的な面から、レトリカルな面から冗長な繰り返しを断罪することもできようが、そうではなく、作者にはマーケティング的観点からの意図があったと解釈すること。

大森望は、事実上「町田は彼の個人的な勝手さから、非美学的態度から、作品を冗長にしている」と判断している。

大森のステートメントに対し、町田康の「告白」において冗長に見える部分は、このような作劇効果があるのだと反論することもできる。どちらが「勝つ」のかは、分からないが……。

聖書の無誤性

聖書は、神の導きによって書かれたとする立場と、そうではないとする立場がある。

聖書の無誤性を主張する立場とは、聖書に書かれた科学的・道徳的・歴史的ステートメントを、全て「字義通り正しい」と主張する立場である。

当然、聖書の無誤性は、神の無誤性からしか導けない。これが崩れると、「不完全な神」という正統派キリスト教徒からからすると異端な視座が浮かび上がる。

これは、テクストと実作者の関係を考える際に、助けとなる概念だ。

ウラジミール・ナボコフの有名な小説「ロリータ」に、致命的な日付け間違いが出てくる。

日付通りに小説を読み込むと、発生するはずの事件が発生していないことになり、主人公ハンバートの手記という体裁を取っている「ロリータ」だが、都合が合わなくなる。

ナボコフが間違えたか、主人公ハンバートが間違えた=ナボコフが意図をもっと考えたか、権威化することは難しい。

しかし、仮に「ナボコフは、その小説の効果・読み方を、全て想定して書いている。

我々が試みるテクスト読解を、彼は全て承知している。ナボコフは、誤ることがない」と考えると、ナボコフのミスは消失する。

なぜなら、無誤の存在者は誤ることがないからである。聖書の科学的記述…創世記を例に取れば、宇宙全体を計六日日で創造しことになっている。

福音主義者は、「何十億年かに思える宇宙の創造は、そうかのように見えるだけであり、神はほんとうに宇宙を七日日によって創造した」と主張する。

聖書の記述は全て神の導きにより、字義通りの人類の歴史であるとの主張だ。

そうではなく、あくまでも聖書の記述には比喩が含まれているとか、当時の人類の知的水準・科学的見地に合わせた言葉を語っているだとか、聖書の記述は文字通りでないとする立場もある。字義通りではないが、誤りではないとの主張だ。

聖書の記述には誤りがあるとする立場を、一般的に新自由主義神学と呼ぶ。ただし、彼らの大半は有神論者である。

神と小説

光は物質ではないが…、と前もってから、光の物質的応用を述べた論文があったとして、筆者は何がしたいのか不明だろう。

権威による論証は、誤謬として論理学では退けられるが、果たして権威を人間は拭いされるのだろうかという疑問がある。

聖書の記述を、「本当かもしれない」と、真偽を宙吊りにして神学を展開することはできる。

しかし、真偽を中立にするといっても、誰かがどこかで書かれたのが聖書である。

「聖書には誤りがある。モーセ五書はモーセ自身によっては書かれず、後にラビによって捏造された」との主張にしても、少なくとも聖書は書かれていることに同意している。

啓示と神の導き

「ロリータ」は、小児性愛者が主人公の物語なので気がひけるのだが、宗教団体Aが、「『ロリータ』は、神の導き・啓示によって書かれた、無誤の物語である」と主張したとする。

ロリータにある誤字脱字・ミスを、その宗教団体はどう扱うだろうか?

誤字脱字・ミスを犯しうるということは、全能でないことの証明である。

ロリータが啓示によって書かれたということは、ナボコフは預言者になる。

「ナボコフはミスしておらず、全くもって神の導きよってロリータは書かれた。作中のミスは、神のミスである」

こんな主張も存在はしうるが、まともには考えにくい。

10ある記述のうち、10個とも信頼できる歴史書と、5/10くらいは本当のことは書いていると認められる歴史書と、どちらが権威を持つだろうか?

モルモン書がバカにされがちなのは、キリストが古代アメリカに渡ったという記述が大きく影響している。だが、モルモン教は相変わらず存続してるし、信者はほんとうに心の底から、良心から伝導している。

恣意性

作品の矛盾が、例えば夢野久作の瓶詰地獄を例に挙げると、そのまま読んでしまえば、作品の記述・指示を虚構世界内でほんとうに起こったことだと解釈すると、破綻してしまう

聖書で字を学んだという主張の妥当性はともかく、この作品を「変態おじさんの妄想」とするか、作中の人物の錯乱の反映=ミスとするか、夢野のミスにするのか、どこまでも恣意的だ。

これは虚構内世界の変態おじさんが書いた妄想であると読む解釈…ポケモンだと、少なからぬ人が「昏睡状態の少年の夢」であると主張しているが、そんな読み方をして誰が得するのかと思う。

ビジュアルノベルだと、最後の最後に「この世界は実は…」、仮装されたコンピューター世界の出来事でした。繰り返される世界の一分岐でしたなど、最後に明かされるものが溢れている。

ビジュアルノベルは、選択肢によってルートが変わっていく。違う展開の物語を統覚し、全て実際に起こったこととしようとすると、どうしても仮想世界・パラレルワールドの提示・繰り返される世界が要請される。

俗に言うループものである。エヴァンゲリオンなどは、作者陣が明らかにそう読まれることを狙っている

ゼルダの伝説に出てくるリンクは、作品ごとに違う主人公である。

このとき、パラレルワールドを想定し、各作品を同じ虚構世界を想定するのか、単に制作者のスピンオフの連なりとして想定するのか、各作品内に明確な言明がない限り、それは消費者が恣意的に設定できる。

私は別に、恋愛系のビジュアルノベルであるヒロインは主人公と結ばれ、あるヒロインは結ばれないことに対し、そう言うものだとしか思わない。

皆平等に救われる=主人公と結ばれることを目指すならば、どうしてもループものになってしまう事情は分かる。

人生が何度も繰り返されるのなら、そこに不幸はないのだ。繰り返される世界のうち、必ずどこかで救済される未来がある。

ビジュアルノベルで、ループものがなぜ隆盛したか? それが売れたからだろう。売れるのは、市場原理的観点からすると、需要があるからである。

我々が作品に対して加える解釈には、多量に我々の願望・傷・心的外傷が影響している。聖書解釈にしろ、それは避けられない。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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