行間と芸術 鑑賞に値するもの

小説を読むときには、まず何が起こっているか把握しなければならない。登場人物も覚えなくてはならない。そして、それまで小説を読んでこなかった人は、長い文をどう区切って読めば良いのかわからないだろうし、登場人物も覚えられないだろうし、展開も把握できないだろう。

良い小説とは、読むに値する小説のことである。ほかの芸術作品にも同じことが言える。

人間の限界

「価値」という言葉には、神の視点からの第三者視点が権威をもつ言葉である。私はこの世にある全ての芸術作品を鑑賞できないが、私が楽しめないからと言ってその作品に価値がないとは言えないし、私が出会うことのなかった作品も、価値がないとはいえない。

前回アート・ワールドに関して言及したが、アート・ワールドには当然「良し悪し」なる尺度があるだろう。

そして、例えば抽象画を「具象的でない」と批判することが適当でないように、作品を評価するための大まかな座標がフレキシブルに点在している。

「私にとってだけ、良い作品」あるいはその逆は存在しうるだろうか? 

これは良くない作品だというとき、そこには一般化への意志が見受けられるが、「この画は、私にとってだけ良いものです」たとえば我が子の書いた自分の似顔絵など、他人にとっては他愛もないものであるが、それを見たがる人はたくさんいるだろう。鑑賞したい人もいるだろう。

記号・象徴は、暗号でない限り、価値を一人だけのものにできない。

行間を読む

小説というのは、基本的に「常連のお客さん」向けの料理しか作らない。

「それまで小説を読んできていない」あるいは「本を読まない」人に向けて小説が書かれることもあるだろうが、レアケースである。

頻繁に馬鹿にされるライトノベルだって、それまでライトノベルを読んできた人を感心させることを忘れて書かれたりはしない。少なくとも商業出版される本はそうである。

アート・ワールドの一つの座標《小説》は、基本的に感じることを良しとしない文化風潮がある。

絵画や音楽(特に音楽)なら、「あなたが楽しいのが一番ですよ」なる言明が幅を効かせることもあるだろうが、こと小説に置いては想像しにくい。前衛的な小説を面白いと感じなければいけない道理はないが、「面白くなかった」というためには、まずしっかりと読み込んでいないといけない

時代考証は、特別しなくとも良い。推奨はされているが、マストではない。時代考証(背景考証)には、キリがないからである。

ジョセフ・バルテリーニが、キックボクシングを解説するときは、何が起こっているのか視聴者に分かるよう、キックボクシングファンなら”やり過ぎ”と思うくらいやると言っていた。

この態度・方法論は、アートにおける批評家の立場と似ている。違うのは、アートはルールのようなものが不断に変更され続けることである。そこはスポーツと違う。

再評価の逆

開高健のエッセイが、再び読まれるようになっているらしい。私は開高氏のエッセイをたくさん読んできたわけではないが、不思議ではないと思う。なぜなら面白いからだ。あと文章が尋常じゃないレベルで上手い。

(アホみたいな説明になった)

昔の作家の作品が、再び読まれるようになること=再評価されることの逆はなんだろうか?

獅子文六が読まれなくなって菊池寛がまだ読まれている理由を、誰か解説してほしいと切に願う。

人間の限界だが、「未来の評価」あるいは「未来の評価軸」を今決定することはできない。

つまり、「未来に再評価される作品」を、今見つけることは不可能である。厳密に言えば。

「ワーキング・プア」なるワードに注目が集まり、小林多喜二の蟹工船に再び光があたったことを覚えている。商魂たくましい出版社は、こぞってキレイな装丁をこしらえて、パブリック・ドメインである本作品を販売したが、今はどれくらい売れているんだろう?

あの蟹工船への注目の集まり方は、美学上・芸術上によるものではないだろう。芸術鑑賞の目的を「気づき」の喜びのためと説明する者が多くいるが、「ワーキング・プア」以前と以後で、蟹工船の小説評価は変わっていない。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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