ヤンキー漫画は任侠映画である

ヤンキー漫画をこれまでいくつか読んできたが、いまだに「ヤンキー漫画のヤンキーが喧嘩をする理由」が分からない。
もちろんヤンキー漫画にも、分かりやすい「喧嘩をする理由」は登場する。例えば「友人が誘拐された」だとか「腕っぷし勝負(決闘)」だとか。
だが、大半の喧嘩はよく分からない「ケンカを理由なく売る」相手がいて、それを買うといった連鎖でケンカが勃発する。
そんなにケンカを頑張ってどうするんだと傍から見て思うが、別にストリートファイト出身(?)の格闘家などは珍しくない。バダハリだってメルヴィン・マヌーフだって、ホルヘ・マスヴィダルだって、路上のケンカからプロ格闘技の世界に身を投じた者たちである。
クローズでも、リンダマンは格闘技の世界に身を投じたようだが、あとは土木建築業者になったり、俳優になったり、ミュージシャンになったりしている。
任侠映画からシノギを除けばヤンキー漫画になる
ヤンキー漫画(ヤンキー映画と言い換えても同じだが)、任侠映画・任侠ものから「シノギ」の概念を取り除けば、そのままヤンキー漫画になる。
ヤクザが抗争をするのは、例え組員の一人が敵対組織と小競り合いになったことが発端であろうと、根本は「シノギ・ナワバリの奪い合い」である。
ヤクザはそのナワバリの中で、あくどい商売をする。覚せい剤を売ったり、チケットを転売したり、みかじめ料をとったり……。
ヤンキー漫画の登場人物は、ヤクザの経済基盤であるシノギの要素を抜かして、メリットの良くわからないケンカに没入する。十代で所帯もないからそんなもんだと言えばそんなものなのかも知れないが、さすがにお金の匂いがなさすぎる。
十代の筋金入りの不良のうち、少なからぬ数の物が半グレ・チーマーになったり、特殊詐欺に関与するようになるが、そこまで描くヤンキー漫画漫画は、QPを除いて知らない。
フェアに言うと、任侠映画もシノギは取り除かれている
「ヤンキー漫画にはシノギがない」と言ったが、任侠映画やVシネに出てくるヤクザも大したシノギがない。主力の資金源であるはずの覚せい剤転売はやらないし、女性をポルノに勧誘したりもしない。
そのくせ、抗争はやる。
ヤンキー漫画をバカにしたトーンで紹介してしまったが、任侠映画に出てくるヤクザだって、「ヤクザ風の何か」である。ヤクザの起源は地元の自警団だが、「古き良きヤクザ」にしたって、あんなにキレイではない。
「悪名」だとか例外はあれ、任侠映画が描く暴力団は、実質的には「地元政府」である。税金(上納金)を徴収し、他国と戦争(喧嘩)する……。
このヤクザの美化は、海外のマフィア映画「ゴッドファーザー」などでも見られる。「非合法暴力結社を美化するなんて」と、制作陣を批判することもできるだろうが、そのコンテンツを楽しんだのは我々庶民である。
ヤンキー漫画が任侠映画に勝っているところ
ヤンキー漫画は、基本的に「ドラゴンボール」と同じ世界感を採用している。素手が一番強く、武器は対した効力を発揮せず、また、ケンカの強さがそのまま人格と繋がっている。
内なる美学だとか、気合だとか、仲間への思いだとか、フェアプレー精神だとか、そういったものが強ければ強いほど、ケンカに強くなれる。
ヤクザものだと、そうはならない。「ケンカの強さ」に代わる指標として任侠ものに導入されているのが、「器」である。人格力とでも言い換えられるだろうか。
「ヤクザのトップに行ける人間は、どんな業界でもトップになれる」と聞いたことはあるが、腕っぷしの強さで格が決まるヤンキー漫画と違って、なんだかせせこましい。
カイジみたいに、「頭の良いやつが強い」世界観ならまだしも、”人間力”のような良くわからないパラメータで強さが決まる世界は、オッサンに都合が良すぎると思ってしまう。
ヤンキー漫画では、「器」がそのままケンカの強さにほぼ比例するのに対し、任侠映画では「器」が組織力に繋がっていく。リアリティが高いのは任侠ものだが、前職のブラック企業でやたらと「気遣い・気配り」を強要されたものとして、嫌悪感を感じてしまうし、同じ感懐を抱くのは、私一人だけではないはずだ。

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