吉松隆の曲命名法に対する一考察

「泥棒かささぎ」の冒頭のスネアドラムは、処刑台に移動するまで叩かれるスネアドラムを指しているらしい。現代に置き換えるなら、少しズレるがパトカーのサイレンの音を再現してそれをオペラの序曲に組み込む工夫に相当する。

メシアンが鳥の鳴き声を模してそれを楽曲に取り込んでいたりするが、何らかの事情で「鳥の鳴き声」なるものを一度も聞いたことがなく、鳥という概念を知らない人がいたとして、その人は楽曲中に登場する音の並びを「鳥の鳴き声を模したものだ」と感づくことは不可能だろう。

標題音楽または標題音楽的な要素を作者が意図して取り入れて、その狙い通りにいけばそれでいいだろうが、ベートーヴェンの交響曲5番「運命」や、シューベルトの未完成交響曲など、作者の意に反した副題=ニックネームが付けられたりする。

吉松隆の命名法

「クラシック大作曲家診断」(37ページ)吉松隆が「自分の意志じゃなくて勝手に(副題が:私注)つけられるのは嫌」と語っている箇所がある。

自分から曲にタイトルをつけるのは構わないが、他人から勝手に愛称がつけられるのはゴメンというわけだ。当然である。ベートーヴェンの運命だって、曲名のせいで印象がだいぶ方向づけられてしまっている。舵を取られてしまっている。

吉松隆はまた別の場所で、「曲名は、具体的な名前をつけずにイメージを狭めないようなものをつける」とどこかで語っていた。

この二つの発言をまとめると、吉松隆の命名は「曲に自分の意思とは関係なく副題をつけられることを避けるために、自分から曲名をつける」行為でもあると考察できる。

タイトルを介してテクストを読解する営みは文芸批評においては当然だが、吉松隆の場合はそれを本人が拒絶していることになる。曲名がサイバーバード協奏曲だからといって、鳥の鳴き声の音形を探してはならないわけだ。あるいは、「これは鳥の鳴き声を模すことによって、人の苦しみを表している」などの解釈の拒否。

テクストとタイトル

「一応タイトルは付けていますが、これをテクストとして扱わないでください」

「私はこの作品にタイトルを付けましたが、それはマーケティングや流通上の理由であり、ほんとうはタイトルをつけたくありません」

「後から私の意志に反してタイトルを付けられるくらいならと、タイトルをつけました」

“これはタイトルではありません”なるタイトルがあったとして、その作品をどう読むべきか迷ってしまうが、内田樹がいう「メッセージの上位に値する、メッセージの読み方を指定するメッセージ」の概念を導入すれば疑問は解消される。

だが、「これはタイトルではありません」の文言から読み取れる内容を上位に置くのか、本屋さんにそのタイトルで並んでいるという環境・出版形式を上位に置くのか、どちらを選ぶのかは恣意的である。どちらを選んでも間違いではない。

「これはタイトルですが、タイトルとした扱って欲しくありません」

言っている内容は伝わるが、現にそこにタイトルは付けられている。JKローリングはハリーポッターの内容にない設定を方々で語っているが、私は無理している。

私にとって、ハリーポッターはあのシリーズ以外のテクストはないからだ。

吉松隆は便宜上・マーケティング的な理由で曲名にタイトルをつけたのかも知れないが、それにしても付け方は素敵で私は気に入っている。そして、私の気に入りは作者吉松隆の意志に反している。

…標題的に解釈されることが嫌なだけで、吉松は別に「タイトルを気に入るな」とは語っていない。

存分に気に入ることにする。

(吉松隆のテクスト外言及はさしづめ、「テクストの読み方を制限するテクスト」とでも述べられるだろう)

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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